本文へスキップ

キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

トップページ > 旅行記 > 切支丹の江戸 part10

 切支丹の江戸 part10


今日はとりあえず東洋文庫ミュージアムへ。時々キリスト教関係の特別展をしているのでサイトでチェックして、興味があるものを観に来ているのです☆ 今やっているのは「幕末展」。幕末の志士たちにちなんだ展示だそうです。掘り出し物があるといいな・・・´3`)´3`)´3`)´ウフフ


東洋文庫ミュージアム


JR駒込駅から徒歩8分。東洋文庫は東洋学の研究図書館で、三菱第三代当主 岩崎久彌氏が1924年に設立しました。

蔵書数は100万冊というから驚きですが、その中に国宝5点、重要文化財7点を含んでいることにもっと驚かされます。

その一つが、キリシタン時代の教理書「ドチリナ・キリシタン(「キリストに倣いて」の意味)」なんですよね。その他にもキリスト教関係の書物が多く収蔵され、その一部がミュージアムで展示されています♪

新井白石自筆文書


常設展示部分は前来た時と同じなんですが、前回とは違うものに目が惹かれました。特に気になったのは新井白石自筆の文書。

切支丹屋敷で江戸時代最後の宣教師シドッチを取り調べて、「西洋紀聞」を書いた人ですね。

ガラスケースの中には、新井白石が仏教について書いた項が開かれていました。全部漢字ですけどメモらしいですねぇ。。

1603年に長崎で活版印刷によって作られた、キリシタン版の日葡辞書もあります! 400年前の物とは思えないほどキレイで状態がいいです。思わず「複製」の文字を探してしまうくらい。その文字がないということは本物なんでしょうね。誰かが持ってて、その時代に使っていたんだと思うと、胸が熱くなります。


新井白石自筆文書

キリシタン版の辞書

日葡辞書解説

ヒエログリフ

モリソン書庫


モリソン書庫は、岩崎久彌が北京駐在のオーストラリア人モリソン博士から東アジアに関する欧文の書籍・絵画・冊子等約2万4千点をまとめて購入したもの。

書庫がそのまま再現された形になっていますが、直接本を手に取ることはできません。赤いテープの中に入ったら警報が鳴りそう。

本に囲まれると厳かな気持ちになりますね。古今の賢人たちから、こっちが眺められているような気がしてきます...(* ̄0 ̄*)

フロイス、アダムズ、アントワネット・・・


下のサムネイルに挙げましたが、16世紀のイエズス会日本年報は、日本での布教状況を宣教師ルイス・フロイスらが書いたもので、本能寺の変で信長が急死したことや秀吉が大坂城を築いたこと等が詳細に記録されています。この当時日本全体のことは、日本人であっても何が起こってるかよく把握できてなかったと思われますが、イエズス会のネットワークと情報の正確に感心させられます。

ウィリアム・アダムズは船が難破して日本に漂着したイギリス人で、家康のブレーンとなって日本で生涯を追えた人です。イギリスはプロテスタント教国で、カトリック教国とは犬猿の仲だったので、日本に来ていたカトリック宣教師たちの悪口を家康に吹き込みました。禁教令の原因の一つとなった人物ですね。

マリー・アントワネットの最後の手紙も展示されていました。マリー・アントワネットはイエズス会の東洋宣教に興味があったようで、日本での活躍も年報などで読んで知っていたみたいですね。これはここで知った豆知識ですけど。言うまでもなく、この三人以外の有名人の著作や蔵書もあります。何と言うか・・・各界のオールスターですよね?


イエズス会日本年報

イエズス会日本年報

ウィリアム・アダムズ書簡

マリー・アントワネット最後の手紙

ジョン万次郎の著書


「幕末展」ではジョン万次郎や勝海舟、坂本龍馬の息吹を感じられました。

展示されていたのはジョン万次郎の「難船人帰朝記事」。この本を読んで坂本龍馬は時代を熱く駆けていったのかもしれませんね。坂本龍馬も岩崎久彌のお父さん岩崎弥太郎も、ジョン万次郎から学んでいます☆

勝海舟の愛蔵書「高麗史」も、収められていた箱ごと展示されていました。この時代、本は横に積んで収納するものだったんですね。

情報が溢れている現代人の目から見ると、幕末に得られる情報というのは随分と限られていて、それでさえ簡単には手に入らなかったのだと分かります。それを元に次の時代を切り拓いていったのだから、皆頭と体をフル回転したんでしょうね。岩崎弥太郎の日記には、坂本龍馬のことがさらっと書かれています。この時代の人たちは影響を与え合ってたんだと知りました。


ジョン万次郎解説

勝海舟の「高麗史」

勝海舟の「高麗史」

岩崎弥太郎の日記

マテオ・リッチと徐光啓


前も見たかもしれないけれど、今回初めて見たような衝撃を受けたのは「マテオ・リッチと徐光啓」の版画。

中国宣教のミラクル・コンビですよ。この2人の時代だけは中国でキリスト教が発展したんですよね。


マテオ・リッチと徐光啓

マテオ・リッチと徐光啓

日本島図

ザビエルの生涯

1階展示室「オリエントホール」


1階の「オリエントホール」は東洋文庫の全体像と常設展示のスペース。エントランスの手前にはミュージアムショップがあります。

ここで雑誌「東京人」の東洋文庫特集を見つけて購入し、荷物が多かったのでソファに座ってカバンを開けて、ほくほくとしまい込んで帰って来たつもりが・・・、後で気づいたのですが、財布をソファに置いて来てしまいました (>o<")

こういうミス、あまりしないタイプなんですけど(実際にしてるので説得力ないですが)。。
「主よ!」と思わず口走りながら、慌ててミュージアムに電話をかけると、雑誌を買った私のことを店員さんが覚えていて、ソファに忘れていった財布も預かってますよと。もう一度「主よ!」と叫ぶところでした。神様ありがとうございます。あ、店員さんも。という訳で、明日も来まーす♪




そんな訳で、連日で駒込にやって参りました (^^;)
財布が無事戻りまずは感謝! ひと安心です。もう一度「幕末展」を観るのも何だったので、以前から気になっていた六義園へ。名庭園として有名ですが、私は初めてで。お天気は雨模様ですけど、風情が愉しめるかな?


六義園


六義園は江戸時代ブイブイ言わせてた柳沢吉保という大名が造った庭園で、名勝八十八景を写し出す造形が当時から有名でしたが、吉保の死後徐々に荒れ果ててしまったのだとか。

明治の世になり柳沢家の所有を離れ、どうしようかというところに現れたのが、またもや岩崎弥太郎で、ポンと大金を支払って購入し、名園を復活させました。

その後岩崎家はこの庭園を市民に開放し、岩崎久弥の時代になると東京市に寄付され、正に市民のものに。財閥ってこういうすごいことしてたんですね。日本のためとか市民のためとか考えたのがすごいです。


六義園について

六義園と岩崎家

市民に開放

東京市に寄付

六義園


しとしとと降る雨の中で見る庭園は、寂しげですが、薄ら寒い感じはしません。

自然だけが目に入ってきますが、人の手が加えられているので、ちゃんと整えられた人の家にお邪魔したみたいです☆


庭園

小道

茶室


餃子の王将


さてと餃子の王将で腹ごしらえを。前回巣鴨から大塚まで歩いて疲れきってしまい、見つけるまで粘れなかった所があるのでリベンジするのです p(・∩・)q

いつの間にか王将くらいは一人で入店できるようになりましたね。油分チャージ完了。

 大塚をリベンジ!


日本基督教団 巣鴨教会


JRで大塚駅へ。そこからまずは日本基督教団の巣鴨教会へ。隣の八百屋さんがどうしてもフレームインしてしまうので、撮る角度を変えてみました。

「からたちの花」碑はやっぱり見当たりませんね。表にはないのかな?

巣鴨教会の実質的な創設者となったのは田村直臣牧師。これより前、明治初頭に築地に建てられた教会はアメリカから派遣された長老派の宣教師たちが建てたものでしたが、1876年に築地から巣鴨に場所を移して教会を設立したのが田村直臣牧師だからです。

以後ずっとこの地にあるんですね。当時は周りもこんなに家がなかったんじゃないでしょうか。今でこそ住宅街のど真ん中ですけど☆


丸山ちよ記念碑


前回見つけられなかったのが、こちらの丸山ちよ記念碑。小さな児童公園のそのまた片隅にありました。

丸山ちよは大正から昭和にかけての福祉活動家。巣鴨で子供たちを預かって教育することによって地域の環境改善に努め、「ろうあ婦人の家」を設立して障害者が自立できるよう職業教育をしました。

石碑の裏面には「地域の子供や母親たち、またろうあの婦人たちのために心身を捧げた。なお、先生は日本の保育事業発展のために多大な貢献をされた」と書かれていました。

戦中、戦後に様々な艱難に遭い、再建しようとしているところで病に倒れ、国から勲五等宝冠章が贈られたたものの、1967年身寄りもなく、ひっそりと杉並区の老人ホーム浴風園で79歳で息を引き取ったという丸山ちよ。報いは天国で受けているんでしょうね ヾ(´▽`*)


児童公園

丸山ちよ記念碑

田村直臣終焉之地


予めチェックしていたものではなかったけれど、偶然見つけたのが「田村直臣終焉之地」碑。こういうものがあること自体知りませんでしたが、見つけてかなりうれしいです♪

東京一致神学校に学び、植村正久、内村鑑三、松村介石と共にキリスト教界の四村と呼ばれたこともありました。

こんなにすごい人たちが出たんだから、皆こぞって洗礼を受けただろうというのは勝手な想像で、明治初期、時代はキリスト教にとって大変厳しいものでした。伝道しに行って肥(人の糞尿)をかけられたなんて話はザラに聞きます。ほんの少し前まで尊皇攘夷の嵐が吹き荒れており、外国人やキリスト教への偏見がはびこっていたので、親に勘当され、友人にも馬鹿にされる覚悟がなければ、洗礼など受けることはできなかったのです。

田村直臣の活動


田村直臣はアメリカへ留学して本格的にキリスト教を学んでから帰国して、日本伝道学校と自営館の二つの教育事業を起こしました。前者は伝道者育成のため、後者は苦学生のために仕事を与える事業です。だけれどこの後日本のキリスト教界は風向きが変わり、日本主義が叫ばれたり、新神学という考え方が外国から入ってきたりしました。

そこへ「日本の花嫁事件」(アメリカの女性と日本の女性の違いを、田村直臣が言文一致体で面白おかしく書いた「日本の花嫁」という本が元となった騒動)が起り、日本基督教会は田村直臣の教職を剥奪。自営館もミッションを離れて運営されているという非難を浴び、キリスト教界で敵対視されるまでになりました。

それで一時期は田村直臣は忘れられた存在となっていましたが、晩年には日本基督教会に復帰し、原敬首相らの出発に合わせて、欧州視察旅行に行くなど恵まれたこともありました。1934年、75歳で脳溢血のため自宅にて逝去。巣鴨教会での葬儀の際は、オルガン奏者を山田耕筰が担当しました。だって自営館の塾生だったんですもんね♪


田村直臣終焉之地

 巣鴨もリベンジ (○゜▽゜○)/


明治女学校跡


予期しなかったものまで発見できたので、調子に乗って巣鴨もリベンジ。庚申塚の後に行こうと思ってたのに、道を間違えてしまって行けなかった明治女学校跡へ!

今日はちゃんと見つけられました。明治女学校は木村熊二によって創立され、近代女性教育のさきがけとなった学校です。

四ツ谷界隈の散歩でも「明治女学校跡」に行きましたが、そこ(麹町)で創立されて、ここへ移って来たのです。しかし麹町にあった全盛期には300人もの生徒がいたのですが、巣鴨に移ってからは100人ほどになってしまい、その後23年で閉校になり、戦災で焼失したということです。

だから麹町の方は「明治女学校開校地跡」で、こちらは「明治女学校閉校地跡」なんですが、そんな細かい区別する必要はないですかね。現在は高齢者福祉施設と幼稚園が建てられています。


明治女学校跡

明治女学校跡

西方寺


では歩いていてもう二ヶ所、お寺を回ってしまいましょう。こちらは西方寺。今は巣鴨にありますが、昔は浅草にあったお寺です。

浅草山刑罰場で処刑されたキリシタンが葬られたのは、浅草にあった頃の西方寺ではないかとキリシタン研究者の高木一雄氏は述べています。

だったとしても、ここに移転した時点で、彼らの亡骸は置いてきたんでしょうけどね。移転したのは1927年らしいので、結構最近ですね。


西方寺

西方寺境内

総禅寺


続いて手塚治虫のお墓があるという総禅寺へ。墓域には基本檀家さんしか入れないということで、赤門だけ拝見。

手塚治虫ファンなら、お寺の方に言って入らせてもらうのでしょうけど、私はそこまでではないので (^^;)

それどころかキリシタンの迫害者が葬られた寺だという理由で来てまして・・・。第二代宗門改役となった北条正房が死んで、湯島にあった頃の総禅寺に葬られました。

その後その墓も庚申塚に移されたということなので、更に関係は薄くなってますけども、私はキリシタン関係ならば、迫害者側の所へも行けるものなら行こうというスタンスでして。だから墓地は入れなくて大丈夫なんです。赤門にプライドを感じますね。


赤門

赤門について

総禅寺

 最後は池袋へ★


東池袋中央公園


さて最後は勢いで池袋に行っちゃいましょう。「戦犯」と「死刑」について考えるために、一度は行ってみようと思っていたのです。

第二次世界大戦中の戦犯を裁いて処刑した巣鴨プリズンがあった場所には、1978年にサンシャインビルが建ち、隣の東池袋中央公園にそのことを示す碑があるそうで。

公園内には、タバコ吹かしている人や寝てる人などがいて、殺伐とした雰囲気が漂っています。女性一人で通るのはちょっと怖くなるくらいですが、せっかく来たのでちゃちゃっと探しまして、と。公園の隅っこの緑に覆われた一角にある、「永久平和を願って」と刻まれた碑がそれみたいですね。そこだけ妙にひっそりとしています。

巣鴨プリズンの碑


カトリックのクリスチャンで作家の加賀乙彦は、1955年、ここにあった東京拘置所の精神科医官となり、数多くの死刑囚と面接し、その時のことを「死刑囚の記録」という本に書き出版しました。

そのまとめとして加賀乙彦は、「死刑制度そのものについての法律学や刑罰学からの考察は、一切しなかった。(中略)ただ、私の結論だけは、はっきり書いておきたい。それは死刑が残虐な刑罰であり、このような刑罰は廃止すべきだということである」と述べています。

日本の未来と死刑制度


1989年12月、国連総会で、いわゆる死刑廃止条約が採択されました。日本もこの条約を批准しているのですが、未だに死刑制度が存在し、先進国では日本だけがこの制度を残しています(アメリカでは州によっては廃止されている状況)。

死刑制度がなくならない背景には、死刑がなくなると犯罪が増えるのではないかという声がありますが、重罪を犯すことで死刑にしてもらおうとする(suicide by cop)若者のニュースが日本でも報道されるようになっている現在では、その懸念が逆に作用する危険性もあります。

またそのような死刑廃止によって起りうる社会的な影響については別に対処すべきであって、死刑廃止条約の基本となる国際人権規約を日本は批准しているのだから、死刑制度廃止に向けて努力する国際的義務を日本政府は負っていると考えるべきです。社会全体でもう少し議論を深めていく時期にきているように思いますね。




過ぎてみると


過ぎてみると、その時が「時」だったのだなと分かることがあります。ああ、あの時がすべき時、すべき機会だったのだと。

それを逃して後でやろうとしたら、何倍も苦労して、それでも「時」にかなって行ったことには勝らないことがたくさんあります。だから「時」をお金に例える人もいるけれど、もっと大切に、「時」を恋人のように思わなければならないかもしれません。

しかし「時」を見分けるのも、その場その瞬間では難しいです。人は目の前の現実しか見ることができなくて、一秒後のことも分からないのですから。神様に「時」を悟らせて下さいと切実に祈っておいて、霊感が来たら、すかさず大胆に掴むのがいいですかね。

そして今のこの時間だって、甲斐ある何かを行うための「時」だということを、忘れないようにしておきたいものです、ね♪




                                        NEXT >>