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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 切支丹の江戸 part5


さて今日は、満を持して下町めぐりへ。上野スタートで浅草橋フィニッシュを予定しています。地図に印をつけてみたところ、キリシタンが葬られた寺も、彼らを迫害した人たちの墓も、結構近くにあることがわかりまして☆
何か発見があるといいなぁヽ( ´ ▽ ` )ノ


大久寺跡


まずは上野駅で下車して駅の東側をパチリ。もうここが史跡地です。

雑居ビルが林立する上野7丁目が、昔、大久寺があった所で、大久寺は大久保忠世・忠隣父子と石川成堯(大久保忠隣の子)の墓があった寺です。

たぶん大久保家の菩提寺だったから「大久」寺なんでしょうね。大久寺は今は田端の方に移ってますが、3人が葬られた頃はここにあったようなので、来てみました。大久保忠隣は秀吉の命を受け、京都でキリシタン捕縛と南蛮寺の破却を行った人物で、後に改易されました。


広徳寺跡


続いて3分ほど歩いて台東区役所へ。立派なビルが睥睨するこちらが、昔、広徳寺があった所。関東大震災の後、練馬に移ったので「跡」になりますが☆

広徳寺には、マンシヤ松浦玉子、松浦隆信、松浦信辰、横山長知が葬られました。

松浦隆信(まつら・たかのぶ)は12歳で第三代平戸藩主になった人物で、母のマンシヤ松浦玉子(日本初のキリシタン大名大村純忠の五女)の影響でキリシタンになりましたが、後に迫害側に転じました。松浦信辰は弟で、母マンシヤが幼児洗礼を受けさせましたが、やはり後に迫害側になり宣教師の尋問などを行いました。

一方、横山長知(よこやま・ながちか)はというと、前田家に仕えた加賀藩の重臣で、息子の康玄(やすはる)が高山右近の娘ルチアと結婚していました。徳川幕府がキリスト教禁令を出したときに、高山右近に対してうわべだけでも信仰を捨てよ」「せめて子や孫たちを棄教させよ」と説得にあたりました。

信仰のゆえに大名の位さえ捨てた高山右近が、自分の説得で覆るとは思っていなかったでしょうが、せめて息子夫婦は安泰に、と考えていたことでしょう。高山右近は棄教を拒否し、一族はマニラに追放されて行くのですが、この時ルチアも同行しました。夫より父を取ったというより、ルチアもまた信仰を選んだんだと思います。


永昌寺


また5分歩いて永昌寺へ。先ほど出てきた松浦隆信の正室が葬られた寺です。正室の墓は1927年に平戸の寺に移されたそうですが。

来てみて知りましたが、「講道館柔道発祥の地」だそうです。その関係の人たちにとっては聖地に準じるものなのか、碑や解説板が狭い境内に複数建てられています。


講道館柔道発祥の地

講道館柔道発祥の地

講道館柔道発祥の地

下谷長者墓塔

報恩寺


それではまた5分歩いて、新井白石が一時身を寄せていたという報恩寺へ。

報恩寺は元々浅草の方にあり、1806年の文化の大火で焼失し、1810年に現在地に移転したということなので、新井白石がいたのはこの場所ではありませんけれど。

報恩寺は新井白石の両親が隠居して暮していた寺で、主家を追われた白石も身を寄せ困窮の極みに至っていた頃の思い出の場所というか・・・。新井白石の墓は高徳寺というお寺にあるのですが、それは高徳寺が報恩寺の塔頭の一つだったからです。人の歩みを追ってみると、その人物の深さに気づかされますね (*゜.゜)


報恩寺

報恩寺鐘楼

鐘楼解説


とっても来てみたかった矢先稲荷神社!


矢先稲荷神社


さてこの度は10分ほど歩いて矢先稲荷神社へ。ここ、来たかったんですよ!!

1657年の明暦の大火で小伝馬町の牢は焼失。牢内にいたキリシタンは浅草三十三間堂に移されたと記録にあるのですが、その跡地がここなのです。

結構調べて見つけたので快挙だ!と思っていたら、解説板に普通に書いてあってアララみたいな...(^▽^;)マ、イイケド

キリシタンと浅草三十三間堂


江戸幕府の方針で、全国各地で捕縛されたキリシタンは江戸に送られ、宣教師や指導者級の者たちは切支丹屋敷に入牢させられ、その他の信徒たちは小伝馬町の牢に入れられました。そこへ起ったのが明暦の大火でした。小伝馬町の牢内に、1645年に山形から江戸送りになったキリシタン綱木左源太盛之という者がいました。

火事が燃え広がってきたとき、牢屋役人は入牢者の逃亡を恐れて鍵を開けず、見殺しにしようとしたのですが、自分が請け負って、牢内の者たちが一人も欠けずに再び牢に戻るようするからと、綱木盛之は役人に掛け合って了承を得ました。そして入牢者たちを率いて浅草三十三間堂に避難させ、全員を仮牢ができるまで管理監督したのです。

この功績を認められて、綱木盛之は後に帰村を許されました。そして再び新庄藩に出仕して、子孫は明治まで続いたのだとか。何とも天晴れな信仰者ではないかと、山形に旅行して以来思っていたので、この度ここに来られて感動しているのであります。一人で感動しているようですが、天の神様もそう思っているんではないかと思ったりして。。


矢先稲荷神社

矢先稲荷神社

浅草三十三間堂

矢先稲荷神社

海禅寺


調子に乗ってきたところで海禅寺へ。以前は湯島にあって、その頃にいろんなことがあったので、ここには何かが残っているということはなさそうですが。

海禅寺にはフルゲンショ大友義延が葬られ、境内ではトマス坂崎成正、寺沢堅高、竹中重義が自害しています。

幕府の処分を受けた者が自害をしてもいいとされた寺だったのでしょうか。大友義延はキリシタン大名大友宗麟の孫、トマス坂崎成正は千姫奪還を狙って失敗した津和野城主で、この2人はキリシタンです。

が、寺沢堅高は島原の乱を発生させる原因を作った唐津藩主で、竹中重義は穴吊りなど多くの拷問法を考案し、過酷なキリシタン弾圧をした長崎奉行。何というか、両極の人たちが同じ寺で死んだり葬られたりしているような気がします・・・。複雑ですね。


日本基督教団 浅草教会


海禅寺で重い気持ちになりながら、日本基督教団の浅草教会を横目にずんずん北上します。

こんなお寺ばっかりの町に教会を建てるって、最初は勇気が要ったかもしれませんね☆

萬隆寺


10分ほどで着いた萬隆寺は立派な堂宇が石段の上から見下ろしてくる・・・ちょっと上から目線なお寺。

いい檀家ついてるんですよ、みたいな? 考え過ぎでしょうか (^^;)

ここは弘前藩主 津軽為信の長男 信健(のぶたけ)と次男 信堅(のぶかた)が葬られた寺。津軽為信は大名になるのに主家である南部家を裏切って手を血に染めたので、南部家の怨霊に悩み、息子に洗礼を受けさせました。

なぜ自分がキリシタンにならなかったかというと、キリスト教は一夫一婦制で、洗礼を受けるには側室を廃さなければならないのですが、それが嫌だったからです。すごいワガママというかエゴイストですね。しかも怨霊は退散させたいというご都合主義。

それで1597年に次男 信堅と三男 信牧(のぶひら)が洗礼を受け、続いて長男 信健がキリシタンになりました。だから萬隆寺は一応キリシタン大名の菩提寺です。信仰があったのかどうか定かではありませんが・・・。ま、私には人の信仰をあれこれ言う資格ありませんけどね☆


萬隆寺

萬隆寺

萬隆寺

東本願寺


何か祭儀でもあるのかなーと思いながら、東本願寺の前を南下して、今度は地下鉄「田原町駅」の界隈へ。

歩いてみると、ほんと想像を絶する寺の密集度です。今でもそうなんだから、江戸時代にはもっとすごかったんでしょうね。これらを支える経済的基盤と信心というものが如何に絶大であったかが感じられます。


玉宗寺


では玉宗寺へ。ディエゴ小笠原権之丞(ごんのじょう)が禁教令のために追われていたときに匿った、小浜守隆という人が葬られたお寺です。

キリシタンを匿った人物の埋葬先まで訪ねるだなんて、ちょっとマニアックになってきましたね(最初からマニアックか!?)。

ディエゴ小笠原権之丞は駿府のキリシタンのリーダーでしたが、徳川家康の御落胤とも言われています。


永見寺


続いて永見寺へ。シモン筑紫茂成が葬られた寺です。

筑紫茂成は文禄慶長の役で朝鮮に行き、従軍中にセスペデス神父から洗礼を受けました。

そして一緒に朝鮮に来ていた兄にも勧めたので、兄の筑紫広門も受洗し、兄にはルイスの霊名が与えられました。

関ヶ原の戦いの後、兄弟は加藤清正に頼りましたが、キリシタンだからと嫌われ、福島正則に仕えるようになりました。後半生は2人とも苦労したみたいですね。


誓教寺


数分歩いて誓教寺へ。葛飾北斎の墓があるお寺です。境内にはものすごく枯れた様子の葛飾北斎像も ( ̄◇ ̄;)

それも一応見ますけど、こちらに寄ったのはそれが目的ではなくて・・・。どこにあるのか分からなかったので、お掃除をしているご住職夫妻に訊いてみました。

「キリシタン灯籠」


「あのぅ、こちらに変わった形の石灯籠があると聞いたんですけど・・・」

顔を見合わせたご夫婦は、「ああ、あれかな?」という表情で、木々に隠れた灯籠を示してくれました。

おお、一部の人が「キリシタン灯籠」と呼んでいる織部灯籠の竿部分が地中に埋もれています。

これがキリシタンの礼拝対象だったと言う人たちがいて、この形の灯籠がある所にはキリシタンが多くいて、夜な夜な参っていたとか言うものですから、一応見られる物は見に行くようにしているんです。私は単なる石灯籠で、古田織部が考案した形なので茶庭に置かれていることが多いとだけ考えているんですけど。行っても見つけられないこともあるんですが、確認できて良かったです♪


葛飾北斎像墓解説

葛飾北斎像墓

葛飾北斎像

善慶寺


さて次は善慶寺。誓教寺とは目と鼻の先にあるのですが、こちらは門扉が閉められていますね。うー、残念。

善慶寺は新井白石がオランダ商館長とシドッティ神父の件で対話したお寺。なぜこの寺で会ったかは分かりませんが、都合がいい面があったんでしょうね。

切支丹屋敷で仕えていた長助とはるの受洗が発覚し、シドッティが詰牢(体を折り曲げなければ入れない半地下の牢)に入れられた直後のことで、半年後には3人とも亡くなっています。


浄念寺


ちょっぴり落胆しながら浄念寺へ。ここにも「キリシタン灯籠」があるというので。

だけれど鉄筋コンクリート造の建物と墓地が少しあるだけで、墓地にあるのかなと探してみましたが見つけられませんでした。さっき見たからいいかな ヾ(´ε`*)


浅草聖ヨハネ教会


ではラストの目的地に向う前にちょっと寄り道。浅草聖ヨハネ教会です。

中でお祈りして行けたらいいなと思ったのですが、今日は開いてないようですね。いろんな日があるみたいです。諦めましょうかね、もうすぐ日が落ちることですし。


蔵前二丁目の川岸


本日のラストはこちら、蔵前二丁目の川岸です。少し侘しい雰囲気が漂っていて、風が刺さってくるような場所です。

サン・フランシスコ号が帰国の途についた港はこの辺りにあったと考えられています。

1609年に千葉県御宿海岸に座礁したサン・フランシスコ号漂着するという事件があり、現地の日本人がスペイン人乗組員を親身に介抱し、多くの者が死を免れたということがありました。今でもこれが日・西・墨の友好を記念するものとして記憶され、御宿には「メキシコ記念公園」内に碑と記念塔が建立されています。

そのサン・フランシスコ号が約一年後に修繕を終え、ドン・ロドリゴ(フィリピン総督。家康にも謁見した)一行が、田中勝介ら22名の日本人を載せて出港したのがここにあった港。この事件はキリスト教禁令発布の前夜に起ったともいえる事件で、これを機に両国間の感情が一気に良くなり、友好に転じる可能性は十分あったんですけどね。神様はそれを期待してきっかけを下さったんではないかと思うんですが。ああ、日が暮れていきます――。




ディープな、そしてマニアックな史跡めぐりを続けておりますが、次は台東区から川を渡って墨田区を回ろうと思います。用事のついでに訪れたので、スタートの時点でもうティータイムですが (T▽T)アハ
何か新たな発見と悟りありますように!


今戸橋


では今日も浅草駅へ。そこから歩いて今戸橋の跡にまでやって参りました。浅草の刑場があった所ですね。

今戸橋の下には、隅田川につながる小川が吉原まで流れていて、吉原に通う客は小舟に乗って行ったのだとか。

風流と言う向きもあるかと思いますが、人身売買と性搾取ですからね。あんまり美化するのはどうかと思います。


リバーサイドスポーツセンター

慶養禅寺

本龍寺


浅草の鳥越山刑場で処刑されたキリシタンが葬られたと考えられるのが本立寺。現在は漢字が変わって本龍寺となっています。

お寺の場所も元は鳥越山刑場周辺にあったのですが、1600年代後半にこちらに移ってきました。

なのでこの境内や墓域にはキリシタンは眠っていないことでしょう。


本龍寺

本龍寺

古い石造物

本龍寺境内

曇天のスカイツリー


曇り空に立つスカイツリーを目印に、墨田区側へと橋を渡ります。近代的なデザインの桜橋は二手に分かれて向こう岸に接していて、渡った先が向島。

下町の名称としてよく聞きますが、来たのは初めて(たぶん)。こんな雰囲気なんだ。。浅草みたいな感じかと思いきや、意外と静かで店も少ないですねぇ o(゜^ ゜)


リバーサイドスポーツセンター

桜橋

隅田川

向島

三囲神社


橋を渡ってまず向ったのは三囲(みめぐり)神社。この神社にある三角形をした鳥居が、景教と関係があるとか、三位一体を意味するものだとか言う本や雑誌を見たもので。

キリスト教系の会報誌でも、そういう寄稿を読んだことがあります。

景教とは、中国に伝来したネストリウス派のキリスト教を言うのですが、それが空海を通してもたらされたとか、その前に飛鳥時代に渡来した秦河勝(はたの・かわかつ)がユダヤ人で景教徒だったとか、そういうのを特集する番組が時折やってますよね。歴史ミステリーを解き明かす!みたいな感じで。


三囲神社解説

境内で一番古い灯籠

三囲神社

三越のライオン

三角石鳥居


歴史ミステリーを面白おかしく見ましょうというなら、それでいいんですけど、キリスト教の歴史となると、看過するわけにはいきません。

それでたくさんの石造物がある境内で探してみたら、本殿の裏手にありました、三角石鳥居が。だけれど一見するだけで新しい物だと分かりますね。飛鳥時代や平安時代ではないでしょう。二代目、三代目だとしたら有り得なくないですけど。

確かに上から見たら三角形で、こういう形の鳥居が珍しいというのは理解できますが、だからといってキリスト教の三位一体を表すというのは飛躍し過ぎのような。秦氏が謎多き氏族であることも、空海が唐で景教に接した可能性も否定しませんが、彼らがキリスト教徒だとか、それだから神道や仏教の中にはキリスト教が入っている、あるいは本質的にはキリスト教なんだという主張は荒唐無稽だと思います。

まっとうなクリスチャンでも最近そういう話をする人が結構いますね。歴史ミステリーを知的な好奇心で見たり読んだりするうちに、そこに傾倒してしまう人が。私はそういうものが元々好きなので、気持ちは分かるのですが、今日来てみてやはり、これはキリスト教って感じはしないな思いました☆



 ああ怖かった、常泉寺 (>_<)


常泉寺


さて続きましては常泉寺へ。元和年間の京都のキリシタン大殉教を執行した板倉勝重と、父から京都所司代を継ぎキリシタン迫害をした板倉重宗という、キリシタンに深くコミットした父子の墓があるということで。

大きな寺だなと解説板を撮っていたら、「見学の方ですか?案内しましょうか?」と一人の女性が声をかけてきました。お寺の檀家さんらしく、寺に興味を持つ人に声をかけているようでした。

そこでこれ幸いと、ついて行ったのが運のツキでした・・・。「まず一通りの所を案内しますね」と墓地に連れて行かれ、世の中で出世した人の墓を幾つか見せられ、吉永小百合もこの寺の墓地を買ってると何もない土地を見せられ、「やはり立派な人はちゃんとした所に墓を建てるんですよねー」とそれらを自慢され、私が 「板倉勝重の墓が見たくて来た」と言うと「誰それ?」みたいな反応。

それでも「この寺にお墓があるならそれはきっと立派な人なんでしょうね」と探す素振りを見せてくれ、一般の人が入れない所まで連れて行ってくれたのですが、そこで段々パニックになってきて、お墓の管理事務所に猛ダッシュ。私が「あ、これみたいです」と言っているのに全否定して...(>_<)


歴史散策地図

常泉寺の話

常泉寺解説板

常泉寺に眠る子爵

板倉勝重父子の墓


慌てて写真を撮ったから、ブレブレになってしまいましたが、これが板倉勝重父子の墓です。その女性は絶対違うと言ったけれど、事務所で調べたら合ってて、私はもう一回行きたかったのですが、「見たからもういいでしょ」と。

そしてそこから延々と、中に入って南無妙法蓮華経を唱えましょうとの説得が。時間がないのでとやんわり断ろうとしましたが、あれこれ言って帰らせてくれません。そればかりか話しているうちに次第に興奮してきて、言葉もぞんざいに。

私が日本人だから仏教徒だと思ったのか、「お墓は何宗です?」と。「先祖の墓は浄土真宗だったかと思いますけど」と答えると、「ハッ!念仏ですか?念仏なんて信じてると大変なことになりますよ!!」と吐き捨てるように言われました。その顔の怖いこと。これでクリスチャンだとか言ったら噛みつかれそうです(いや、マジで)。

「宗教は怖い」と言う人の気持ちが初めて分かりました。自分も信仰があって、それを大切にしているが故に人にこんな形相を人にして見せることもあるんだろうかと、心の中で反省してみたり。30分ほども叫ぶように話したら、その女性も疲れたのか、最後だけちょっと元に戻って「また来てくださいね」と言って、解放してくれました。

大抵の人は懲りて「二度と行くもんか」と思って立ち去るんだろうなと思いながら、寺を後にしました。板倉勝重父子の墓の写真をちゃんと撮りに行きたいけど、あの女性がいたら無理ですね。いなかったとしても似たような人が出てきそうですし。無事帰れましたが、久々のホラー体験でした。。


隅田公園


逃げるように早歩きで隅田公園へ。この辺りは「隅田」と「墨田」が混在してややこしいですね。これくらいのややこしさは、先ほどの常泉寺に比べれば可愛いくらいですけど。

走っている人を何人か見かけましたが、ちょっと寂しい感じがしますね。


源森橋

源森橋

周辺地図

墨田区役所は!


源森橋を渡って右手に向かい、やって来たのは墨田区役所。東京はどこの区役所も高層ビルですごいですね。

ここが福井藩の屋敷跡だったと知り、押さえておこうと思って来たのですが、解説板を読んでびっくり。谷田部藩細川氏の屋敷跡だと言うではありませんか!

ビンゴ!と、思わず口が動いてしまいました。谷田部藩細川氏といえば細川興元(おきもと)。バリバリのキリシタン大名(1万6千石で外様だけど)です。確か江戸の上屋敷で死去したはずですが、それがここだったのか・・・。調べてみないと分かりませんが、かなりの収穫です。ハレルヤ!O(≧▽≦)O


浩養園跡

浩養園跡解説板

天祥寺


では残すはあと二ヶ所。どんどん行っちゃいましょう。こちらは墨田区役所から徒歩3分の天祥寺。平戸藩松浦氏の墓があるお寺です。

マンシヤ松浦玉子、松浦隆信、松浦信辰など、松浦家の多くの人が上野にあった広徳寺に葬られましたが、この寺にも松浦家の墓所があるそうです。中は全く見えませんけどね。


妙縁寺


ラストは天祥寺から大通りを渡ってすぐの妙縁寺。私の殉教地めぐり友達のM子ちゃんの御先祖に相馬大作という人がいて、その人の首塚がここにあるということで。

相馬大作はキリシタンではないけれど、興味深い人物で、弘前藩主暗殺未遂事件を起こしたのですが、それが「赤穂浪士の再来だ」と江戸の講談にも取り上げられたんだとか。

私は知りませんでしたが、人々の心を惹きつける何かを持っていたんでしょうね。妙縁寺境内には石造物はあるものの、結局首塚は見つからなくて、いつかM子ちゃんと来るべきだということかなと思いながら帰路につきました。歴史の世界は知れば知るほど深いです☆


妙縁寺

妙縁寺境内

井戸の解説

妙縁寺の井戸


どんなことをしても


「どんなことをしても、考えるとおりに感じる。つらいと思えばつらく感じられ、幸せだと思えば幸せに感じられる」――。
最近聞いた中で心に残った言葉です。ほんとにそうだなと。

私は自分の興味関心の赴くまま、今のように突き進んでいけることを幸せに感じています。たとえ妙縁寺の帰りに雨に降られ、ずぶ濡れになっても、風邪ひきそうになっても(実話です;;)。

それは脳に「幸せ」と刻まれているからでしょう。「私は幸せだ」と感謝を込めて、毎日告白できるよう生きていきたいものです (●⌒∇⌒●)





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