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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 ソウル松山キリシタンの旅 4


今回の旅の特徴は、海外と国内を抱き合わせて回ろうという点。ソウルから飛んでやって来ました松山。空港、韓国人だらけです。ソウルからの距離が東京よりも短いから、乗っている時間もあっという間に感じました。近いんですね。

距離感というのは、認識による影響が大きいのかも。遠いとばかり思っていると足が遠のくから、近いという認識に変えるのが良いですね。韓国より暖かいから、何かほっとします♪




うどんでスタート


今日はキリシタン関係で交流が始まった社会人男性Yくんと、その友人2人と一緒に史跡めぐり。こういうご縁もあるんですねぇ。電話で話したことはあったけど、会うのは初めて。「顔面初めまして」です。

ランチはうどん。自分の好きなだけ麺をゆでる方式で、1~10玉まで同料金って、アバウトの極み? 四国に来たんだなと感じました (*^^*)



浦上キリシタン流謫碑


では早速、松山のカトリック墓地へ。ここに浦上キリシタン流謫碑がありますので。

浦上キリシタンとは何ぞや?という方のために説明しますと、江戸時代の長きにわたり、キリスト教は幕府により禁止されていました。

しかしその長きにわたり隠れて信仰を守ってきた信徒たちがいて、その人たちが開国後長崎の居留地に教会堂が建てられたのを見て、そこへやって来て信仰を告白したんですね。これを「信徒発見」といって、とても感動的な大きな事件として世界に伝えられました。

しかしまだキリスト教への禁令が解かれていなかったため、明治政府はこの人たちを逮捕して、名古屋から西の20の藩に流配したのです。その数およそ3400人。長崎の浦上(うらかみ)村の人が多かったので、浦上キリシタンというのですが、この人たちが流配されて来た地の一つが松山です。それで「流謫」と書かれている訳ですね。


松山に来た浦上キリシタン


松山に流されて来て、牢屋生活をするようになった浦上キリシタンが、どんな生活をしていたかについては、こちら(南蛮遍路 其の四)に書いた通りなんですが、食事も衛生も悲惨で、拷問も加えられていました。そこで三津口の牢に入れられている時に7人が病死し、その後、御月山と呼ばれる所に移されてからは少し待遇が良くなりましたが、それでも1人が亡くなりました。

キリスト教禁令が解かれた1973(明治6)年になって、ようやく彼らは元の長崎に戻って行けるようになったのですが、それまでに死亡した8人の名前を石工に頼んで刻んでもらって、その墓碑を建てて当地を去りました。それがこちらの流謫碑の前に置かれている小さな石。

彼らが松山で耐え忍んだ3年半の年月は、今だからこそ「3年半だった」と言えるけれど、当時はいつ終わるかも分からず、死ぬまで続くかもしれないと思われていた時間でした。そんな中で信仰を守り、一日一日を暮らしていくことが苦痛でなかったはずがありません。

カトリックでは、この流配中に死亡した人たちを「最後の殉教者」と呼んでいるのですが、その中に松山の信徒もいたということです。「最後の殉教者」が成した勝利が、今に続いていることを忘れてはいけないと思います。私はここに来るの2回目ですが、来させてもらえて感謝だなと☆彡



解説板

墓域の小聖堂

浦上キリシタン流謫碑

背面

変化の兆し?


ふと上空を見ると、冬には珍しいモクモクとした雲。

そこから眩い光線が放たれていて、何だかとってもファビュラス!

天から誰か降りてくるかのような・・・。 幻想的で、CGかと思うくらいですが、こんな芸術を創り出せるのは神様だけですね。意味があるとしたら、「私が共にする」かな。それとも何かの予兆? 何か良いことが起こる前触れかもしれませんね。だったらいいなー (⌒∇⌒)♪



衣山刑場跡


では次は衣山(きぬやま)の刑場跡へ。ここ、本日最大の山場です!(え、もう?w)

私が見当を付けていた場所になかなか行けなくて困っていたら、同行者の一人が「あそこじゃないですかー?」とナビってくれて無事到着。

地元民が加わってくれたお陰で来ることができました。ありがたや&ハレルヤ(うまいこと韻が踏めてる)

死亡した浦上キリシタンの遺骸が埋められたのが、藩の処刑場だった所だと資料に書かれているんですが、たぶんここがそれだと思います。今は松山刑務所の管轄地となっています。「浄域」と書かれているので、元は墓地だったようですし。刑場⇒墓地⇒刑務所敷地という変遷をたどってきたことがうかがえます。


伊予国唯一の殉教事件


記録に残る伊予国で唯一の殉教事件、ヨハネ柳屋九兵衛の処刑も、ここで行われたのではないかと、私は考えています。

ヨハネ柳屋九兵衛は元々伊予国(現在の愛媛県)の出身で、小西行長に仕えている時に受洗。キリシタンであることが発覚して牢に入れられましたが、一年間監禁されているうちに、牢内で5人を伝道しました。そのため藩主 加藤嘉明の命により、16242月14日、意気試し(イキダメシ)という刑に処されて殉教したのです。

意気試しとは、全裸で地上に体を横たえさせて、両断するものです。こんな残酷な方法で処刑したのは、見せしめにするためですね。伊予国には結構キリシタンがいて、宣教師たちも有望な宣教地の一つとしてこの地を挙げています。

1603年頃、正木(松前)には若いリーダーに指導された40人ばかりのキリシタンがおり、感心すべき清い生活を送っていたという記録もあります。その頃どのくらいの信徒がいたかというと、四国全域で1450人くらい。恐らく伊予は多くの比率を占めたのではないかと思います。

禁教令のせいで、信徒たちは村ごと引っ越すなどの苦労もし、宣教師もたえず巡回しましたが、どんどん信徒は削られていき、天草島原一揆の後は記録が途絶えるようになります。ヨハネ柳屋九兵衛の殉教はその最中のことだったから、当然見せしめの意味が大きく、また効果もあったのではないかと。




浄域

浄域

石碑

合葬墓


入口の錆びついた扉を押したら、意外にもすっと開いたので中へ。 お参りに来る人がいるようで花が手向けられています。そのために開けてあるのかもしれないですね。

合葬墓の裏手にあるコンクリート造の納骨堂には、由来を刻んだ碑が埋め込まれています。

先ほどの予想は当たっていて、衣山の地は刑場⇒墓地⇒刑務所敷地となったのだけど、昭和の初めには荒涼とした地に成り果てていたので、教誨師たちが寄付を募って納骨堂を建立し、全ての遺骨を入れたのだとか。

敷地内に植えられている木には、センダンが多く、この木はよく処刑の刑具として使われた木だと、Yくんから教えてもらいました。ネットで調べると、昔から梟首(きょうしゅ。=獄門、晒し首)の時に、この木に掛けてたり、獄門台に用いたりしたのだとか。刑場であったことを更に念押しして示していることですね。



合葬墓


衣山刑場跡

椿

紅白の椿


合葬墓の手前に紅白の椿が植えられているのですが、ちょうど花盛りで、風が吹くたび花びらが舞い散ります。椿が大きな木に成長しているので、下にいると香りが降ってくるようで、うっとりするほど。

刑場跡、そして墓地の跡なのに、不思議とふわっと麗しいものに包まれたような気持になりました。慰めと癒しが共にしてくれているようです。

賛美して、その場を後にしました。ヨハネ柳屋九兵衛や浦上キリシタン、他にもいた可能性がある殉教者たちは、すごく久し振りに賛美歌を聞いたかもしれないですね。



札ノ辻へ


次は札ノ辻だと向かっていると、何やら人が集まっている様子。自分たちのように歴史散策をしているのかと思って近寄ってみたら、ポケゴー(ポケモンGOの略。ポケットモンスターを現実世界でゲットするゲームアプリ)でした。

結構年上の人たちもいます。スマホでモンスター捕まえたいんですね。歴史散策に誘いたくなりました (-ω-)/カモン



松山城のお堀

札ノ辻跡の旧碑

愛媛教育草創之地

札ノ辻


こちらが松山札ノ辻。札ノ辻の「札」とは高札のことで、幕府や藩の禁令が掲示されていました。その中にはキリシタン禁令の高札も。

民衆にお触れを広く知らしめるため、人々の往来が激しい「辻」、つまり道の交差する所に建てられていたので、「札ノ辻」。

キリシタンや、元キリシタンは、これから目を逸らせて通って行ったでしょうね。「キリスト教禁止」と書いて、人通りの多い辻々に張り出すなんて、今ではそっちが憲法違反ですけど、当時のお上はそうだったということです。

松山から諸地方への里程は札之辻を起点としていたので、里程の石碑も添えられています。金毘羅街道は小松まで十一里、金毘羅まで三十一里、土佐街道は久万まで六里、土佐まで二十五里、大洲街道は中山まで七里、大洲まで十三里、今治街道は北条まで四里、今治まで十一里、高浜街道は三津まで一里、高浜まで二里と。

お城の目の前にあるこの札ノ辻は、五つの街道が合流する最重要ポイントだったんですね。四国一帯を旅する人たちは、こちらの高札を目にして「キリシタンは怖いな」と思ったのか。キリシタンは、怖いどころか、平和の中で神様の愛を実践することを願っていたのに。イメージや、それを植え付けることこそが、怖いなと思います。



札ノ辻

札ノ辻

里程

カトリック道後教会


さてと、次は道後へ。道後は観光地として有名だけど、地元の人からするとすごい歓楽街だそうで。知りませんでした (゚Д゚;)

こちらは偶然通りかかったカトリック道後教会。教会行きたかったからうれしいです。中には入れないようですけど。

道後には、昔キリシタンの教会がありましたね。宣教師が住む司祭館も。そう言ったら、Yくんに「ここがその跡地ですか!?」と聞かれましたが、それはないと思います。少し歴史を振り返っておきますかね・・・。


道後の教会とキリシタン


1590~92年頃、伊予国には修道院と司祭館がありました。その頃の日本地図にラテン語で「道後」「教会」「司祭館」と書かれています。この教会は秀吉の伴天連追放令のあおりを受けて、すぐに壊されてしまいました。

しかしその後ペドロ・ナヴァルロという人が初めて布教を目的として伊予に赴任して開拓を始めたんですが、その時恐らくその教会を再興して拠点としたんだろうと考えられます。つまり道後。温泉が湧くこの地は、伊予では人の集まる、旅人にもオープンな布教に向いた地だったのでしょう。

宣教師もきっと入湯してますよね、道後温泉に。ペドロ・ナヴァルロはイタリア人なので、温泉文化に抵抗はなかったかと。いや、ちょっと喜んだ可能性もあります♪(私の勝手な推測)

のちに他の地域で殉教した伊予出身者、ヨアキム九郎右衛門(於;広島)、サイト・トクウン(於;長崎)、トマス西堀(於;長崎)、シモン・サイビョーエ(於;江戸)はこの頃伝道されたのではないかと考えられています。だからきっとこの人たちも温泉に・・・。

異郷で亡くなるまで、何度も思い出したでしょうね、この地のことを。自分が神様と出会った地のことを、意外とよく覚えていたりするものだから。



カトリック道後教会

カトリック道後教会

石手寺


道後の中心、いえ、それどころか、お遍路の発祥となった石手寺にも来てみました。無知ゆえに私は知らなかったのですが、四国霊場では随一といわれる文化財の宝庫だそう。

それもそのはず、そもそもお遍路参りは、衛門三郎(えもんさぶろう)という人から始まったとかで、その伝説の石がこの寺に納められているそうな。

それは行ってみましょうか。クリスチャンだけど、日本文化は知らなければですし。四国霊場参りもその一つですから。何か学ぶことがあると思います☆

入って行ってみると、さほど広くもない境内に、塔や鐘楼や石造物が所狭しと建てられていて・・・物量に圧倒されて、脳の判断を司る部分が衰弱しそうです。弘法大師から水子供養、お釈迦様に閻魔様と、網羅する範囲が広いのに、それらが時系列や関連性を無視して高密度で並べられているので、どこに焦点を当てて見ればいいのか混乱しますし。

ま、いいか。郷に入っては郷に従えというから、石手寺モードで行きましょう。見れば紅葉も美しいです。



石造物

回廊

建造物

紅葉

宝物館


せっかくだからと思って入場した宝物館。「停電ですか?」と聞きたくなるほど照明を落としています。どこかの学芸員たちが来て、展示に借りる物を詳しく見ていました。

その一角だけ電気引いてきてサーチライトつけてるんですけど、それならこんなに照明絞る意味なくね?と誰かツッコミ入れないんでしょうか。。

石手寺の「石」は、薄暗くてスマホのライトつけないと解説も読めない所にありました。衛門三郎の生まれ変わりが握っていたという宝物ですね。もちろんこの石もスマホのライトで照らし出さないと・・・、ねぇ、やっぱ展示室の電気つけません?



仏像


衛門三郎伝説

仏像

至る所に文化財


境内ほとんどの堂塔が国宝、国の重要文化財に指定されているそうですが、いろんな時代に偉い人が様々な思惑と信仰で建てたんだろうなと思いました。

境内の隅々までハイテンション。仏教の中でもいろんなアイテムがありますが、それらがごった煮状態になっていると言ったら叱られるかもしれないけど。

クリスチャンだからと言って、私はお寺やその在り方を批判的に捉えるつもりはないんですけど、ここには断捨離できる敏腕プロデューサーが必要ではないかと感じました。空海と衛門三郎伝説に的を絞っちゃダメなんですかねー。



閻魔様


いかにも閻魔様な閻魔像。その下から入って行ける洞窟が、地獄めぐりになっています。

足元に注意しながら暗闇を進むと、途中に仏像が置かれていて、「地獄で仏」みたいな演出になっています。その仏様が、出会ってホッとする感じでないと思うのは、受け取る側の責任でしょうか (^_^;)

地獄の怖さを教える教育施設だと思えば、その効果ありと言えそうです。

地獄めぐりを終えて、現実に引き戻されるような道路を渡ると、金色のタマネギ型ドーム。納骨堂みたいです。大きなお釈迦様像も建てられていますが、その周りに、かなり雑然と木彫りの仏像が20~30体置かれていて、倒れないようにまとめて縄で縛ってあるのはどうも・・・。

出来映えもそれほど良くないように見えました。表情も技術もビミョー過ぎて。素人目(私)には、素人作(頑張ってセミプロ?)に見えました。それで隅に置いてあるんだと思いますが、この一切ケアされていない木像群が、カオス漂う雰囲気を更に独特なものにするのに一役買っています。

石手寺ではまだまだ像を増やすつもりなのか、石造物が建造工事中。止まりどころを知らない仏像愛に、「もういいよ」と言いたくなるのは私だけ? 若い女性を中心にパワースポットめぐりがブームだと聞くけれど、中にはパワー吸われる所もあるかもしれません。いやー、ここは一回でいいかな(あくまで個人的な感想ですw)



タマネギ型

建造中


海を見に行こう♪


松山福音センター


宣教師が来た海を見に行こうということで向かっていると、信号待ちで横手に教会発見。松山福音センターです。

ここ知ってます! 万代栄嗣牧師が代表を務める聖霊派の教会で、たぶんここが本拠地だったかと。

松山って結構大きな教会あるんですね。長年ここで頑張っている人たちも。



堀江の港


着きました、堀江港。どちらかというと、浜って感じだけど。

夕暮れ時の最高の時間帯に来たみたいですね。

柔らかな空の表情と、深い青さをたたえる海が、創造主の素晴らしさを語っています。

人間は、神様が創られたものの中で最も「良し」とされた被造物ですが、空や海など万物ほどに神様の素晴らしさを語れているでしょうか――。


堀江港とキリシタン


さて堀江港がキリシタン史に登場することをご存知でしょうか?(これを知ってたらかなりのツウです)
伊予国を一番最初に踏んだ宣教師はガスパル・ヴィレラという神父で、ミヤコに行く途中、堀江の港に悪天候で10日間滞在したことがあります。その次に来たのはルイス・フロイス一行で、驚いたことに宣教師一行が港に着いてみたら、そこにはすでにキリシタン数人がいたんだとか!

その人たちは先にミヤコで受洗して、堀江に来てしばらく滞在していたそうです。だけど偶然にも宣教師に会えてうれしくて、その人たちが他の日本人に宣教師を紹介して、8日間の滞在のうちに6人がまた洗礼を受けてキリシタンになったんだとか。こういうのも導きですよね。

キリシタン人口がほとんどいない日本で、着いた港で信徒に会うだなんて。他に伊予国の地名では、宣教師の記録に松前(正木)、松山、板島(宇和島)、戸島が出てきます。今回は宇和島や戸島までは行けないけれど、いつか。40人の信徒がいたという正木にも行ってみたいな☆





空よりも青い

海の青

1200年の祈り

いつか必ず・・・

浜辺


浜辺に残る犬の足跡。とっても楽しく駆け回ったようです(^^♪

弘法大師が四国霊場を開いたとされる時からおよそ1200年。霊場を回りながら、どれだけ多くの人が天を、永遠な世界を、救いを求めたんだろうと思いました。

その切実さが結実するように、祈りたいと思います。



三津浜港


ラストは三津浜港。途中渋滞にハマって、着いた頃には真っ暗;;

三津浜港は流配されて来た浦上キリシタンが上陸した港です。堀江よりは松山市内にずっと近いですけど、ここから三津口牢まで徒歩では相当ありますね。

土佐(今の高知県)に流された浦上キリシタンも三津浜港に上陸して、ここから徒歩で高知市内に行ったのですから、松山札ノ辻からだと二十五里、つまり100キロは歩いた計算になりますね。ここから札ノ辻だって結構あるし、高知に着いてもかなり田舎に隔離されたので、120キロは下らないかと。彼らにとって苦難の始まりの地だったと言えそうです。


ソウル松山を結ぶ点と線


今頃になって思い出しましたが、松山に来た浦上キリシタンは、三尺牢の拷問を受けていましたね。ソウルの刑務所歴史館で見たあの狭い牢です。

体を折り曲げてやっと入れる三尺牢で、米蔵という信徒は46日間、断食して過ごしたそうです。水と塩くらいは摂らないと無理だと思いますが、「旅の話」にはそう書いてあって、その様子を見かねた役人がついには「信仰を続けてもいいから、病気とかしないように」と言ったのだとか。

さっきカトリック松山墓地の墓碑に「パオロ米蔵」の名があったので、「最後の殉教者」の一人になったようですね。ただあの浦上キリシタン流謫碑を建てるきっかけになったのは、松山で両親と一緒に牢屋生活をして、後に神父になった山口宅助神父です。皆挽回しているんですよね、歴史の中で。

それにしてもソウルと松山が拷問方法でつながっていたとは。またそれに勝って自由を得たということも・・・。人の体を縛ることはできても、心を屈服させることはできないということを証明しているように思います。人間に与えられたこの心の自由を、自分自ら放棄してしまわないように、顧みながら歩んで行かなくては。



三津口港

三津口港

松山空港


翌日、松山空港には顔出しパネル。どこにでもありますけど、みきゃんは好感度高いですね。

今回は一人で動くことが多かったですが、緊張していたことがかえって良かった面もありました。

緊張の帯を緩めていたら、キャッチすべきことも感じられなかったと思うから。脳をしっかりと起こして、いつもの生活でも頑張れますように。はー、ほんとに無事で感謝です!





ホサナの島


聖書の中に「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」というフレーズがあります。ホサナは、ヘブル語で「救ってください」の意味。ハレルヤ、アーメンと並んで「教会で使われるヘブル語三強」に列せられて(?)います。

が、聖書に出てくる回数はアーメン58回、ハレルヤ28回に対して、たったの6回と、使用頻度が低いため、クリスチャンでも意味を知らないってことが・・・(;^_^ ナ、ナイヨネー

なぜこんなことを書くかというと、四国をホサナの島だと感じたからです。四国八十八ケ寺巡りという形で、多くの人が霊場を回り、永遠な世界を目指そうとした姿が、人生を歩む全ての人の姿のように思えて。「ホサナ!」と言っているように思えて。

お遍路さんは道をひたすらに歩いて行くけど、それは「ホサナ」、つまり「救ってください」という切なる思いが込められた祈りのようなものではなかったかと思うのです。そうであれば、祈りは1200年分たまっていることに。

ちょっと飛躍しているかもしれませんが、そんな祈りが刻まれた四国に、希望の陽が昇るように思います。いえ、信じて祈ります。「主の名によって来(きた)る者にホサナ!」――。その言葉の通り成されますように♪







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