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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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南蛮遍路 其の五


とうとう最終日。今日は愛媛のはじっこから高松を回り、徳島に行ってフィニッシュ。夜行バスで帰ります☆何だかんだ言って毎日強行軍なので、帰りはぐっすり眠れそうな。いやいやその前に、安全に一日が守られますように!いい時間になるよう祈ります(≧∇≦)ノ



日本基督教団 三島真光教会

日本基督教団 三島真光教会


四国の広さをナメていた私は、今回の旅程を考える上で大きな間違いをしてしまってました。どこであれ、地図で見るより実際はもっと遠い!(反省しますです・・・)

それでも四国中央市に縁あって来たのだから、教会は回ります。こちらは日本基督教団の三島真光教会。教会堂、すごく新しくてきれいです。駅近だし☆


カトリック伊予三島教会

カトリック伊予三島教会


続いてカトリック伊予三島教会へ。こちらは昭和くらいの建物に見えます。昔から信者さんが守ってきた教会だということですね♪

ではいざ香川県へ。四国は著名人の名前を冠して、「○○通り」と名付けられた道が多いような気がします。中には今も生きてる人の名前もあったりして、その人がこれから何か間違いを犯してしまったらどうするんだろうと、余計な心配をしてみたりして (^^;)


大平正芳の墓!

大平正芳の墓!


そんなことを思いながら「大平記念通り」(国道11号)を走っていると、「大平正芳墓所」の案内板が。そっか大平さんはここ観音寺市の出身だもんね。

大平元首相は聖公会のクリスチャンだったので、お墓に寄ってみることにしましょうか。計画していなかったけれど、クリスチャンだから寄るようにしてもらったのかも。ならば是非お参りを♪

大平正芳の墓

大平正芳の墓


お墓は墓地公園みたいな所の入口にあって、松林に囲まれた特別な一角にあるんですが、墓碑に「大平正芳之墓」と書かれているだけで、ちょっと素っ気ない印象です。

功績を称える解説碑が置かれてるのは、郷里の誇りって感じですけど。クリスチャンっぽさは皆無ですね。

そういえば多摩霊園でも大平正芳さんの墓を見たことがあります。こちらは地元用のお墓なんでしょうか。お墓って遺された人が建てるもんだからな、、と思いました。



 高松市に到着 d(o⌒∇⌒o)b


高松聖ヤコブ教会

高松聖ヤコブ教会


高松市に無事到着しました!
では早速教会へ。高松聖ヤコブ教会です☆

幼稚園が併設されている大きな教会ですね。バリアフリーのための昇降機が備えられているのが見えます。時代ですねぇ。


浦上キリシタンが帰郷許可を告げられた西役所の跡

JA西の丸別館


では市内の中心部に移り、浦上キリシタン関係の場所へ。

こちらのJAの建物が建っている所が、昔の西役所の跡です。長崎から来た浦上キリシタンが帰郷許可を告げられた場所ですね。

ここに役所があったことも、今では誰も知らないような感じです。


アントニオ石原牢屋跡

アントニオ石原牢屋跡


続いて道の反対側のガソリンスタンドと香川銀行洗心会館をパチリ。この辺りに昔、高松藩の牢屋がありました。

讃岐のキリシタン殉教者、 アントニオ石原孫右衛門は1617年頃ここに入牢させられていた訳です。西役所跡よりも往時を覚えている人はいなさそうですが。


日本基督教団 高松教会

日本基督教団 高松教会


ではどんどん行くとしましょう。キリシタン関係の所に行く道すがら、日本基督教団の高松教会を見学(外からだけですが)。

戦前高松市内には、長老派の高松三番丁教会、組合系の高松七番丁教会など、いくつかのプロテスタント教会がありましたが、戦後の復興期に三番丁教会と七番丁教会が合同し、日本基督教団高松教会が設立されるようになりました。

高松を代表するプロテスタント教会だということですね☆


カトリック番町教会

カトリック番町教会


続いてカトリック番町教会へ。ほんとにすぐ近くにあります。日曜の朝歩いていると、「あ、あちらの信者さんだ」とか思うんでしょうね (^。^;)

ここにカトリック教会があることは意味深いですね。浦上キリシタンが入れられていた場所とも近いですから。


浦上キリシタンを入れた浄願寺跡

高松市立中央公園


さて現在は中央公園となっている辺りが、明治の初めに流配されて来た浦上キリシタンが収容されていた所です。

今は番町2丁目の方にある浄願寺は、当時ここにあり、その西側に馬術教練所があったのですが、その敷地内にあった馬小屋に信仰が強固な者を入れたのです。

中央公園の真ん中には菊池寛の銅像が建てられているけれど、菊池寛はそんな郷土の歴史を知っていたんですかね?


高松の大通り

高松の大通り


次の目的地に向って大通りを行きながら、この道も信徒たちが通ったかもなと思いました。連行されて行くときや、解放されて長崎に帰って行くときに。

高松に来た浦上キリシタンは、途中で生まれた赤子2名を加えて54名(51名とも)。約3年半の間、何ヶ所か場所を替えながら幽閉されていました。

高松藩では厳しい拷問が行われたとは言われていませんが、流配者たちは2度と故郷に戻れないと考えられていたので、長崎では家が略奪にあって、戻って行った時には何も無くなっていたといいます。流配だけで苦しみが終わったのではないということですね。



 やっぱり教会で祈りたい!


カトリック桜町教会司教座聖堂

カトリック桜町教会司教座聖堂


郊外を走って行くと、道の傍らに突然現れたのがカトリック桜町教会。四国全体を管轄する高松司教区のカテドラル(司教座聖堂)です。

カトリックでは四国の中心と言っても過言ではないでしょうね。カテドラルが高松に置かれた経緯を私は知らないけれど、キリシタン史的には納得がいきます。讃岐の殉教者 アントニオ石原孫右衛門が信仰の証をしたのはこの高松だったのですから。

アントニオ石原孫右衛門父子像

アントニオ石原孫右衛門父子像


聖堂前には、天を見上げるアントニオ石原孫右衛門父子の像が。見たら思わず涙が溢れました。

もう随分いろんな殉教地や牢跡をめぐってきて慣れてきて、最初の頃のようにどこに行っても泣けてくるということはなくなっていたので、こんな気持ちになるとは自分でも意外でした。

カトリック桜町教会

カトリック桜町教会聖堂内


聖堂の中に入らせてもらってお祈りを。

やはり涙が止まりません。いつまででも祈っていたいような気持ちになりました。

美しい聖堂ですが、それ以上のものがありますね。


アントニオ石原殉教地

花園ふれあい公園


ずっと聖堂にいたかったですが、そうもいかず、行きたい所もあるので次の場所へ。アントニオ石原殉教地です。現在は公園になっています。

カトリック桜町教会から東に500メートルくらいの所で、当時は御坊川沿いにある藩の刑場でした。

ここで、父であるアントニオ石原孫右衛門は1617年7月16日(元和3年6月14日)、息子フランシスコはその翌日に処刑されました。アントニオ石原は備前国の人で元々武士でしたが、関ヶ原の戦いの後、商人となって高松に居を構えるようになりました。熱心なキリシタンで、自宅に人々を招いて教えを解くなどしていたことが藩の役人の目に留まり、捕縛されることとなりました。

棄教を勧められても断固として受け入れず、刑場に向かいながら「転ばないようにしてくださったことを感謝する」と言って、首を斬られました。41歳のときのことでした。その翌日、息子のフランシスコも刑場に連れて来られ、剣で胸を3回突かれて死にました。まだ4歳でした。

昨今では、そんな怖い話は嫌だと言って、刑場だった場所を隠す傾向がありますが、本当に怖いのはそういうことがあったことを忘れることです。特にアントニオ石原父子の話については、もっと知られる機会があってもいい気がします。

殉教した人もさせた人も日本人なのですから、どうしてそうなったかを問うことは意味があることではないでしょうか。負の歴史に目を向けることは、今生きている者にこそ多くのことを教えてくれるのだと思います。


日本キリスト改革派 高松教会

日本キリスト改革派 高松教会


次は教会へ。結構近くにあるものですから。日本キリスト改革派の高松教会です。

日本基督(正式には漢字)改革派教会は、戦前の日本基督教会(日本基督教団では第一部となっていた)の中で南長老ミッション及び中央神学校の流れを受け継ぐ人々が中心になって、日本基督教団を離脱して1946年に創立されたものです。

福音派で長老主義の教会ですね。白い教会堂がまぶしいほどです☆


改革派 高松教会

浦上キリシタン牢屋跡

パチンコG-one


続いてまたもや浦上キリシタン牢屋跡へ。現在はパチンコ屋になっていますが、片原町駅に近いここに昔、藩の牢屋敷があり、信徒たちが入れられたのです。

1869(明治2)年12月、長崎を発った浦上キリシタンは、伊予の三津ヶ浜に上陸し、年が明けてから高松に到着しました。彼らが最初に収容されたのは「城の外濠に沿った広場の内、高い土塀をめぐらした二棟の家」だったと「旅の話」に書かれていますが、郷土史家の調査で、それがここだったと明らかにされました。

明治4年の春からは説諭(棄教の勧め)に一層力が加えられ、一部は船の作業場や六番丁にあった浄願寺西の馬術教練場(現在の中央公園)に移されましたが、また他の4人は片原町駅付近にあった思案小屋に入れられました。だからこのパチンコ屋の付近にもう一つの牢(として使われた小屋)があったはずですね。

詳しい場所は当地の郷土史家の人たちにも分からないようです。また牢屋生活をしていた信徒たちには土地勘がなく、与えられる情報も少なかったので、自分たちがどこに入れられていたのか、後になって証言できる人も少ないのです。

だけれど詳細が分からないからといって証ししなかったら、何もなかったのと同じになってしまうので、分かる範囲でだけでも追ってみたいと思って来てみました。往時の面影が全くないということを知るのも収穫ではないかと思います ('-'*)



 それではお城も見学してみましょう d(^-^)


高松城跡

高松城跡(玉藻公園)


絶対に行きたかったキリシタン関係の所には行けたので、余った時間でお城も見ておくこととしましょう。玉藻公園となっている高松城跡です☆

日本三大水城の一つでしたっけ。瀬戸内海の水を外堀、中堀、内堀に引き込んだ景色が壮観です。

この城の縄張り(設計)は、黒田官兵衛とも細川忠興とも言われています。どちらもキリシタンに関係ある人たちですね。黒田官兵衛はキリシタン大名でしたし、細川忠興の正室、玉は細川ガラシャ夫人と呼ばれる、やはり有名なキリシタンの女性だったので。

高松城跡

城内


キリシタンゆかりの城とも言えそうですが、だけれどしかしアントニオ石原父子の処刑を命じた人もここに住んでた訳ですね。いいことだけではありません。

殉教は1617年なので、藩主は生駒正俊の時代です。

高松藩は1587年に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられ、国主として生駒親正が入府したのが始まりで、高松城はその翌年から築城に着手されました。高松での生駒氏の治世は4代54年間で、生駒正俊はその3代目。4代目のときに生駒騒動といわれる御家騒動が起こり、讃岐国を召し上げられ出羽国(秋田県)に移されました。

「生駒おどり」と生駒騒動


アントニオ石原父子の処刑から4年後の1621年、生駒正俊が36歳で死去すると、11歳の息子、(後の)生駒高俊が後を継いだのですが、藩政の主導権をめぐって家老同士が対立し、後見である藤堂家とも軋轢を生むようになりました。

藩主になったからには、幼少期は家老に譲ることがあっても、元服してからは実権を握らなければなりませんでしたが、生駒高俊は藩政をないがしろにし、男色を極度に愛好してそれに溺れていました。領内の美少年を集めて舞わせる遊びにハマっていたようで、世人はこれを「生駒おどり」と呼んだそうな。

1637年生駒騒動が勃発し、幕府は1640年、生駒高俊の領地を没収し、出羽国由利郡矢島へ配流することとし、堪忍料として1万石を与えました。アントニオ石原父子の処刑からは20年になりますね。たった20年で何もかもがひっくり返って変わったと言えそうです。



玉藻公園案内図

高松城跡

天守台跡

高松城ミニチュア

水戸徳川家との関係

城の発掘物

陳列館の展示品

陳列館の写真

藩主の別邸

藩主の別邸「披雲閣」


公園内に旧松平家高松別邸であった披雲閣もあるので覗いてみると、「どうぞー」と親しげな笑みで迎えてくれるボランティアガイドさんがいたので、靴を脱いで中へ。

その人が普段は立ち入りできない場所まで連れて行って案内してくれたので、ただ自分たちで見て回るのとは全然違いました。見どころを教えてもらえるので。

知ったふりしてさらっと見て通り過ぎないで、ちゃんと教えてもらって学ばなければなりませんね (゜∇^*)



茶会の催し

とても古い蘇鉄

天皇が宿泊した間

一枚岩の手水鉢

一枚岩の手水鉢

一枚岩の履脱ぎ

名勝指定された庭

細部にも細工が

天皇が宿泊した部屋

天皇が宿泊した部屋より


天皇が宿泊した部屋にも上がらせてもらいました。

ガイドさんが窓を開けてくれたのですが、部屋で座ってそちらを見ると、ちょうど城と海とが借景になって、最高の眺めに。そのようになるよう、建物と部屋を設計したということです。昔の人もすごいですね。天皇用の場所に座ってみたからこその贅沢です☆

風にほんのり海の匂いが漂っていて、こういうものは写真で見るより体験する方がいいなと思いました♪


そばが食べたい

そばが食べたい!?


そろそろお腹が空いてきました。夫に何が食べたいか聞くと、このうどん県(香川県)にありながら、そばが食べたいと。

無理だろうなと思いながら、「食べたいものは口に出して神様にお願いするといいよ」と言ってみたら、しぶしぶ口に出す夫。するとどうでしょう、そばも出すうどん屋が目の前に!

すごい神様って、と思いながら食べてきました。そばと言っても、どこかうどんに寄せたようなそばで、太さがうどんでしたが・・・。それでもいつもその環境で一番良いものを下さるのだと感じました ´3`)



 再び徳島へヾ(@⌒▽⌒@)ノ


大川キリスト教会

大川キリスト教会


胃も満たされたところで、四国旅の出発点、徳島へと戻っていくこととしましょう。しばらく行くと沿道に現れたのは、日本イエス・キリスト教団の大川キリスト教会の案内板。

香川では最後の教会になるだろうなと思いながら寄ってみました。

日本イエス・キリスト教団は、戦前日本基督教団の第七部として加入していましたが、離脱して1951年に設立された教団です。プロテスタントの、いわゆる福音派の教会ですね。教会周りに清潔感があります☆


徳島インマヌエル教会

徳島インマヌエル教会


徳島市に入って、行き損ねていた教会に。日本聖公会の徳島インマヌエル教会です。

実は開国後徳島で一番最初に福音を宣べ伝えたのは、聖公会の宣教師でした。1880年、H・エヴィントンが療養のために徳島にやって来て、療養の傍ら伝道活動もして、翌年には3人の受洗者が出ました。

それが元となって1884年、徳島で最初の教会として、徳島インマヌエル教会が設立されたのです。徳島に来たらここには来なければなりませんでしたね o(*^▽^*)oアハ


徳島聖テモテ教会

徳島聖テモテ教会


続いて同じく日本聖公会の徳島聖テモテ教会へ。

今の教会堂は1990年に改築されたもので新しく見えますが、元になる教会が設立されたのは1919年。

あと数年もすれば100周年を迎える歴史ある教会です。郊外にありますが、熱心な信徒さんたちが守り続けてきたんでしょうね。


日本基督教団 徳島西教会

日本基督教団 徳島西教会


そして日本基督教団の徳島西教会へも。住宅街の中にあって、建物からは昭和の雰囲気が感じられます。

私は今回勘違いしていたのですが、賀川豊彦に洗礼を授けた宣教師マイアース(マヤスとも)系統の教会は、現在「日本キリスト教会」の教会となっているんですね。

「日本基督教団」の教会だと思い込んでいて下調べができず、そちらには行けませんでした。再訪を期して・・・うーん、いつまた来られるんだろうなぁ (;´д`)



 ラストは徳島城でということで♪


表御殿庭園

旧表御殿庭園


それでは残りの時間はお城で過ごそうということで、徳島城へゴー。

今も庭園が残されている旧表御殿ですが、蜂須賀家政はここで死去するまでの38年間のほとんどを過ごしたと伝えられています。

そんな気持ちだったろうと考えてしまいますね。表面的な棄教だったのかどうか・・・。

1608年、晴れて司祭になったディエゴ結城が徳島に戻ると、家政は4回ほど屋敷に招いて歓待したというので、その場所はここっだでしょうね。話を聞いた家政は信仰を取り戻したようですが、その後はまた萎えてしまったんでしょうか。

余談ですが庭には、毒を飲まされた初代藩主 蜂須賀至鎮があまりの苦しみと悔しさで地団太踏んで踏み割ったという青石橋があります。何でそんなこと・・・と思いますが ( ▽|||)
もう一つついでに言うなら、「キリシタン灯籠」と一部の人が呼ぶ織部灯籠も発見。元々御殿の庭にあったものではなくて、近年になって寄贈された物のようです。


旧表御殿庭園

織部灯籠

至鎮が踏み割った岩

旧表御殿庭園

蜂須賀家政像

蜂須賀家政像


旧表御殿の庭園であれこれ思いながらじっくり休んで、城跡の中央にある蜂須賀家政像へ。

「これぞ殿!」といった感じの天晴れな笑顔ですが、実際はどうだったのでしょう。

藩祖・蜂須賀家政が地元民から尊敬されているのは、阿波入国後に藍、塩などそれまで阿波になかった産業を取り入れて、諸工業を興し、盛んに日本中に売り広めたからで、有名な阿波踊りも家政の時代に始まったと言われます。そういう面では評価されてしかるべきなんでしょうが、本人は幸せだったんでしょうか。


蜂須賀家政像解説板

本丸への道

東二の丸跡

石垣

徳島城本丸跡

徳島城本丸跡


日中の暑さで参った体を引きずりながら石段を登り、本丸跡へ。

いわくありげな祠があったので解説板を読んでみたら、蜂須賀家政はとんでもないことしてたことが分かりました。

この城を築くのに邪魔だからと、清玄坊という修験者を城下におびき出して謀殺。地所を奪ったということです。

その後蜂須賀家では変事が続いたため、石碑を建てて供養したら収まったというんですが・・・。「ひどいことするね」と夫が言いました。同感です。蜂須賀家政がどんな人で、何と思って暮してたんだろうとずっと考えてきましたが、私の中では「蜂須賀家政棄教説」に決定です。信仰と一緒に良心も売ってしまったんですかね。心が辛い時には主を求めたでしょうけれど、それ以外は空っぽの心で暮していたのかもしれません。


本丸跡

清玄坊

清玄坊について

本丸跡

鷲の門

鷲の門


強まったり弱まったりする偏頭痛をこらえながら、出入口の鷲の門へ。高校生がたむろしていてよく見えないなと思った瞬間、私の口から大きなくしゃみが出て、高校生たちが飛び上がって道を開けました。

「あー、びっくりしたー」と帰って行く若者たち。全国の学校関係者の皆さん、非行防止にはくしゃみが有効です!苦笑

それにしても立派な門ですね。1989年に一個人によって復元寄贈されたもので、億単位のお金がかかったそうです。まずは金額に驚いてしまいますが、徳島城跡には城は残されていないので、郷土のプライドを取り戻したくて寄贈したのかもしれませんね。その気持ちは誰にでも共通するものではないかと思います☆


鷲の門解説

徳島城跡の堀

数奇屋橋

数奇屋橋解説



衝撃のラスト・・・!


レンタカー屋に行くと、返却した車をチェックした人から「すいません、ちょっと見てもらえますか? ここに前にはなかったキズが」と言われました。もう帰るだけだと気を緩めていたところだったので、突然のことにしばし呆然。確かに新しいキズがあります・・・(×_×)

付帯保険に入ってなかったので、ほんとなら10万かかるところでしたが、「そんなにもらったらこっちがもらい過ぎですから」と、向こうから申し出てくれて7万円に。それでも十分痛い出費です(皆さん、付帯保険にも入りましょー)。

私たちの四国旅行はラストに衝撃が待ち構えていた訳ですが、ここで悟ったことが一つ。それはこのように自分も許されて、叱られるんだとしても負けてもらって、弱めに叱られて存在しているのだということ。ならば自分も人を許しましょうよ、ということになりますし。

今日、観音寺市辺りからは再びお遍路さんと遭遇しながら、徳島まで戻って来ました。始終見ていたその姿は、人生を歩む全ての人と自分の姿に重なります。そう、誰でもこんなふうに死への道をひたすらに歩んでいくのに、その中で恨んだり憎んだりしながら生きていくなら、それほど無益なことがあるでしょうか。

人はどうせ死ぬんです。しばしの時間地上にいるだけなのに、恨んでること自体がもったいないし、死んでから行く世界を考えてもそれは大きなマイナスです。もうやめよう――。前々からやめたいと思っていたことを決心するようになりました。私は私を新しくするために、四国に来させてもらったんですね。感謝。


拙い旅行記を読んで下さった皆さんにも感謝いたします q(^-^q)♪




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