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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 エヴァーグリーンの杜 chap.3


キリシタンの足跡とキリスト教の記憶が行き交う仙台を、あと半日散歩します。以前ちゃんと行くことができなかった教会など、朝のひと時は一人できめ細かく回ってみようかな (^_-)-☆


定禅寺通り


3日間お世話になったホテルをチェックアウトして、定禅寺通りへ。初日にエヴァーグリーンを感じたストリートです。ここを歩くと、仙台が好きだという人の気持ちが理解できます。

目を上げて道の先を見やると、誰かを迎えるために整えられた道のようにも見えました。白馬に乗って王子様が?だといいですね♪


日本聖公会 仙台基督教会


定禅寺通りの角には日本聖公会の仙台基督教会が。震災後すぐ来た時にはまだ古い教会堂でしたが、建て替えられたんですね。

宮城県内に聖公会の教会は伝道所も含めて4か所。ここは東北教区の主教座教会です。

「主教座」という名称が、カトリックに寄せてる感じですね。聖公会はAnglican Churchの流れを汲む教派で、カトリックとプロテスタントの中間的性格を持っています。


旧聖堂の赤レンガ

旧聖堂の赤レンガ解説

解説板

仙台基督教会

教会かと思いきや・・・


カトリック教会に向かって歩いていると、「あ、ここにも教会発見!」と喜んでしまうような建物が。でもよく見ると結婚式場でした。そうだ、前もこれでダマされたのを思い出しました (*_*;

外観は完全に教会ですよね。それをウリにしてお客さん集めてるんでしょうし。もしかしたら雇われ牧師が来て誓いの言葉とか言わせてるのかもしれません。

海外から来たクリスチャンが「日本にもこんな素敵な教会があるんだ」と感激して入っていくと結婚式場だったという、冗談にもならないお笑い草を時々聞きます。こんな偽物文化をはびこらせていていいんだろうかと、朝からちょっとプリプリ。


カトリック元寺小路教会


大通り沿いのニセ教会から一本中に入って行くと、本物の教会が。カトリック元寺小路教会です。

こちらも仙台教区のカテドラル(司教座聖堂)ですね。カトリックの東北における中心地と言っていいかと思います。

信徒数は1100名を数えるとHPにはありますが、朝のミサの出席者はあまり多くないよう。

皆さん忙しいですからね。平日は熱心な方たちだけが来ているのでしょう。聖堂は開いてなかったので、庭のルルドと芝を眺めながら、小さな声で賛美。


教会の庭

元寺小路教会

聖堂入口

キリスト教用品店

仙台ハリストス正教会


歩けそうだったので、仙台ハリストス正教会までてくてく。

こちらもハリストス正教会の東日本主教座聖堂で、主教々区宗務局が置かれています。

仙台はカテドラルの街と言うべきかもしれません。これほど近距離に各教派の中心たる教会が集まっているのも珍しいのではないかと。

仙台ハリストス正教会と沢辺琢磨


仙台ハリストス正教会がこの土地を手に入れるようになったのは、1877年頃のことで、その立役者の一人が沢辺琢磨でした。沢辺琢磨は坂本龍馬の従兄弟で、ハリストス正教会初の日本人信徒です。正教徒になったのは、箱館に来ていたニコライをスパイではないかと勘ぐって、返答次第では斬ってやろうと大太刀を持って訪問したのがきっかけ。

沢辺の質問によどみなく答えた上で、「あなたは正教の教えを知っているんですか?」と逆質問され、「知ってみてから反対しても遅くはないでしょう」と言われて、教理を学ぶようになり、途中から自分の友達まで誘ってとことん聞いて、誘った友達もろとも正教徒になりました。

仙台では正教徒が宣教をし始めた当初、とても迫害を受けて、沢辺も投獄されるまでになりましたが、それでも諦めずに活動して、この土地を旧士族から買い、付近の土地も買い足し、仙台の中心に広大な土地を得たのです。

1892年にはニコライ(最終的な位階は大主教)により成聖式が行われ、ビザンチン様式の白亜の生神女福音聖堂が竣工しました。現在の聖堂1998年に新築されたものですが、その初代聖堂の面影を彷彿とさせるものとして造られています。今はビルの谷間になっていますが、光を放っていると思います☆



ハリストス正教会

教会案内

ハリストス正教会

モスバーガーで朝ごはん


朝から3つも教会を回り、むふふと満足しながらモスで朝ごはん。私は目玉焼きを載せたアツアツご飯が好きなのですが、それをライスバーガーに仕上げたものがありました◎

知らないうちに世の中進んでますな。こんなに外食トレンドの移り変わりが早いのは、日本の一つの特徴ではないかと。工夫し、より良いものを提供しようとする、また季節感や流行を取り入れたがる、だけど若干飽きっぽいところがある――。

その特徴に合わせて宗教が受け入れられるとしたら、トレンドに乗っかっていく必要があることになりますね。季節のイベントも取り入れて。・・・考えていたら不毛だなと思いました。一時の流行でなく、普遍的なところで受け入れられ発展していかねば。信仰は季節限定メニューじゃないもんな。もぐもぐ。



るーぷる仙台


では仙台駅から観光用のバス「るーぷる仙台」に乗って仙台市博物館へ向かうとしましょう。レトロで人気らしく、女性運転手さんは英語でも応対しています。

博物館への行き方は他にもあるけれど、バス運行ルートの途中で評定河原の上を通るので、チョイスしてみました。この選択が「吉」と出ますように!


教会発見!


観光名所のアナウンスを聞きながら、車窓を眺めていたら教会を発見。「在日大韓基督教会 仙台教会」とあるので、日本に住む韓国人のための教会みたいです。

「日本人はどこか外国に行くとすぐに会社を建てるし、中国人は食堂を開くけれど、韓国人はどこの国に行っても必ず教会を建てる」という話を聞いたことがありますが、その通りなんですね (*'ω'*)


評定河原


さてこちらが車窓から見えた評定河原。バスの車高の分、初日に見た時よりよく見渡せます。やっぱ「吉」でしたね。

私は殉教地を求めて今まで2回ほど仙台に来たことがあり、その際最も信頼していたのが高木一雄著「東北のキリシタン殉教地をゆく」だったのですが、今回来てみて、その中にいくつかの誤りというか、私が勘違いしてしまっていることがあると気付きました。

帰ったら宮城県の史跡案内も書き直さないとです。私のサイトをコピペして刑場跡を紹介しているサイトがいくつかあるので、そちらはそのまま蔓延していってしまうかもしれませんが・・・(そちらにまで知らせる義理はないだろうから)。

仙台のキリシタン殉教地


仙台城下で行われたキリシタン処刑は以下の通りです。
  • 1624.2.1 マルコ嘉兵衛ら6名が火あぶりに。
  • 1624.2.14 ジョアン安斉と妻アンナが水籠で凍死。
  • 1624.2.18 マチヤス次兵衛とジュリアノ次右衛門が水籠で凍死、パウロ新蔵が斬首に。
  • 1624.2.22 カルヴァリヨ神父とレオン藤右衛門ら日本人信徒6名が水籠で凍死。
  • 1624.2.24 アンドレア市右衛門ら5名が水籠にて凍死。
  • 1624.12.18 仙台藩家臣黒田平左衛門ら3名が斬首に。
  • 1637.某月某日 隣の新庄藩から逃れてきたキリシタン数人が捕まり、新庄藩の捕吏によって斬首に。
  • 1637.8.31 支倉常頼の召使、与三右衛門と妻きりが吊るし殺しに。
  • 1639.11.12 胆沢郡六日入村の渋谷太郎右衛門が吊るし殺しに。
  • 1640.4.9 支倉常長の嫡男、支倉常頼と支倉常坊が斬首され、渋谷太郎右衛門の妻せつと息子三次が吊るし殺しに。
  • 1640.4.25 牢内でキリシタン23名が吊るし殺され、子供など20名が斬首に。
  • 1640.4.某日 胆沢郡六日入村のキリシタン19名が処刑された。

このうち、地方での処刑以外は、大橋のたもとに設けられた水籠の所で行われたと考えていたので、そこが刑罰場跡だと書いていたのですが、どうも違うようです。水籠はキリシタン拷問のために臨時的に設けられたもので、見せしめの意味もあるので城から下って来てすぐの広瀬川で行いましたが、それ以外の斬首などは牢内か、牢から引き出されて隣接した仙台藩の刑罰場で行われたと考えるべきだと気付きました。

研究者の本にそう書いてあったので、そう書いた訳ですが、人のせいにするのも何ですし、私が誤解した点もあるのかなと思うので、「私の勘違いでした」と訂正することにします。だから上記の殉教のうち、「水籠」「胆沢郡」「牢内」となっているもの以外はこちらが殉教地ですね。お詫びして訂正いたします <(_ _)>



評定河原

評定河原

評定河原

東北大グラウンド


 国宝となった支倉常長関連史料を見に(#^^#)!


片倉小十郎屋敷跡


それでは国宝指定を受けた支倉常長関連史料を収蔵する仙台市博物館へ。橋を渡るともう昔の城内で、行政機関が集められた二の丸や重臣の屋敷もこの域内にあります。

こちらは片倉小十郎の屋敷跡だとか。博物館への通り道にしか見えませんけども。

片倉小十郎は重臣の中の重臣で、白石城主でした。1万8千石を受けていたので、かなりの大身です。

白石もキリシタンがいた地域で、1643年に白石城主片倉家の家臣から2人のキリシタンが発覚しています。ここに屋敷が造られたのが1677年のことだと書いてありますから、キリシタン武士がここに出入りした可能性は低いとしても、キリシタンが発覚した時の片倉家当主が、後にここに屋敷を築いたということにはなりますね、年代的に。


屋敷古地図

片倉小十郎屋敷跡

仙台城マップ

五色沼

仙台市博物館


博物館では初日に一緒に回った学生さんたちとTさんと待ち合わせ☆彡

仙台市博物館は伊達家から寄贈された資料群の保管・展示・研究のために、仙台城三の丸跡に設けられた博物館。

ユネスコ記憶遺産に登録された「国宝 支倉常長像」など3点を含む国宝 慶長遣欧使節関係資料や、重要文化財の伊達政宗所用具足・陣羽織、豊臣秀吉所用具足などを展示しています。

私が以前仙台に来た時には修復中だったので、ここを訪れるのは初めて。会いたかったよ、常長~!という感じ♪

中は撮影不可だったので、ネットで画像を検索してみてほしいですが、支倉常長の絵は折りたたまれていたので折り目がくっきり残っています。迫害期には絵を広げておけなかったことがうかがえますが、折り目が顔の中心や目元をそれていることが分かります。たぶん折りたたんだ人の良心が、あるいは信仰がそうさせたんでしょうね。

そういった素人目に分からないポイントを解説してくれるのがボランティアガイドさんで、頭脳明晰そうなガイドさんに案内してもらえたのは幸いでした。主に仙台城の城としての成り立ちや建築物の構造などを教えてくれるのですが、仙台城の大広間、千畳敷は伊達政宗が宣教師と会った場所。思わず目が輝いてしまう瞬間が随所にあります (@_@)キラーン

二の丸にあった「切支丹所」


せっかくだから質問もしてみようと思い、「切支丹所」は二の丸のどこにあったのか?、そこで何をしていたのか?、仙台藩の刑罰場はどこにあったのか?などを訊いてみました。スミマセンね、知りたいことがマニアック過ぎて。普通の観光客に見せかけていますが、口を開くと、「お前何もんじゃ?」みたいになること多いです ( ̄▽ ̄)オホ

完璧に向こうが話したいこととズレてましたが、知っている限りのことは教えてくれました。それによると、二の丸に「切支丹所」があったとしたら勘定所の所だろうということでした。私が尊敬する高木一雄さんの本に「切支丹所」があったと書かれていたので訊いたのですが、そういう名前の機関はなかったもよう。

キリシタンからの押収品やキリスト教に関連しているかもしれない物品は、勘定所に保管され、調べられたり、虫干しされたりしていたので、そこのことを言っているのでしょうとということでした。そうだったか。どうりでどんなに探しても「切支丹所」がなかったはずです。また藩の刑罰場は花壇の評定川原、伊達政宗の廟所の方だと聞いたとのことでした。なるほどー、話を聞けて大収穫です!



伊達政宗像


ガイドさんの案内で博物館から本丸に登っていく、車道として整備されてない道のほうに出ると、伊達政宗の胸像が。

本丸にある騎馬像よりこちらがより古いものだそうです。きっと一角の人が造ったんだろうと想像できるような、絵になる像です。

東北大に留学していた魯迅の像もありますが、支倉常長がローマ教皇に謁見した際の様子をレリーフにしたものもありました。



記念碑

魯迅像

記念碑

支倉常長レリーフ

大手門脇櫓


Tさんが行ったことがないと言うので、仙台城にも行こうかと思いましたが、考えてみたら私の帰りの時間が迫って来ていました。

そこで本丸跡には行かずに勘定所跡に行ってみることに。仙台城は再建されてませんが、櫓が再建され、各所に解説板が建てられていて、勉強になります。


大手門脇櫓

中門跡

中門跡解説板

震災の記憶

支倉常長像


二の丸は東北大の川内キャンパスとなっているのですが、通り沿いには支倉常長像。

堂々たる全身像で、関連資料が国宝になりユネスコ世界記憶遺産にもなったからでしょうか、像の周辺が整備され、以前にはなかった小公園が出現しております。

立派な像の前に立ち、この人がキリシタンだと思うと誇らしくもあるのですが、信仰よりも政治的な流れに翻弄されることが多かった生涯を思うと、複雑な気持ちにもなります。

支倉常長と慶長遣欧使節


支倉常長と慶長遣欧使節について説明するには、「慶長」の前に「天正」遣欧使節がヨーロッパに行ったことから話さなければなりません。天正遣欧使節とは、日本史の教科書にも出てくる伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンという、有馬のセミナリヨで学んだ4人の少年が、九州のキリシタン大名の名代としてローマまで行き教皇に謁見して帰って来たものです。彼らはヨーロッパ各地の宮廷に招かれて楽器を演奏したり、ダンスも頑張って踊ったりして、向こうでちょっとしたブームまで巻き起こしました。

発案者はイエズス会のヴァリニャーノ神父。出発は信長時代の1582年で、帰って来たのは秀吉時代の1590年。すでに伴天連追放令は出ていましたが、秀吉は聚楽第で宣教師と4人の少年に会い、演奏を聴いてアンコールをし、上機嫌で誰かワシに仕えぬかとまで言っています。

そんな「天正」遣欧使節と「慶長」遣欧使節は全く様相が違います。まず支倉常長は少年ではなく、出発時にはキリシタンでもありませんでした。徳川の世になった1613年に日本を発ち、帰還はキリスト教禁令が徹底されつつあった1620年。送り出したのは、これまたキリシタンでもない伊達政宗で、この計画の発案者はフランシスコ会のソテロ神父でした。


常長とソテロの最期


伊達政宗の南蛮交易に対する野心を見透かしたソテロが、日本からの使節を連れて教皇に謁見し、いろいろとお願いしようとしたというのが真相です。しかし日本での禁教の様子がヨーロッパに伝わってから行ったので、ブームどころか各地で厄介者扱いされ散々な目に遭っています。航路も東回りと西回りで全然違っていました。実は2つの遣欧使節はローマという目的地は同じでも、世界を逆に回ったのです。

支倉常長はヨーロッパで洗礼を受け、教皇に謁見することまでは何とか果たしましたが、交易は結べずに帰国。キリシタン禁令のあおりで、仙台藩でも邪魔者となり、蟄居を申し付かって2年後に死去したと言われています。後に家臣の中でキリシタンが発覚し、その責任を問われて、支倉家を継いだ嫡男は処刑されています。

一方ソテロはヨーロッパからメキシコ経由でフィリピンに到着した後、フランシスコ会の長上から日本行きを止められ、マニラで足止めを食らいました。そしてやっとのことで出帆して鹿児島に上陸するや否や、中国人船長の裏切りで捕縛され、1624年長崎の放虎原で火刑に処されました。殉教者として1867年に列福され、205福者の一人に数えられています。

この結末をどう見るか、私には判断が尽きません。どこか物悲しく、もどかしい気持ちだけが渦巻いてくるような感じがして・・・。



支倉常長像

台座の船

ローマまでの距離

扇坂

勘定所跡


支倉常長像から少し進むと、緑のキャンパスが見えてきて、一気に明るい場所に出ました。

日差しも空気も爽やかで、暗く狭い場所から抜け出したような。

二の丸の勘定所があったのは大体この辺り。藤棚が涼しげな日陰を作っています。支倉常長関連資料も、ここに保存されていたことがあったろうと、先ほどのガイドさんが言っていました。ならばここは、そのバトンを受け取る場所と言ってもいいかもしれませんね。

日の目を見なかったキリシタン関連品が、今や国宝や世界記憶遺産となり、復活した光を満喫するかのごとく、緑のキャンパスが輝いているのを見ると、「ここに引き継がれたり」との思いが浮かんできます。暗く澱んだ時代を抜けて、その答えとなるものを享受していく時が来たのかなと、風の中で感じました☆



二の丸跡

二の丸跡

帰りのバス


台風一過の青空の下、帰りのバスは順調に東京へ。同じようなルートを北上した宣教師は徒歩だったことを思うと、何と強靭な精神と体力を持っていたことよと驚きます。

神様のために、キリストの福音を宣べ伝えるために、そこまで自分はできるんだろうかと、殉教の事実を差し置いても、足りなさ、至らなさを感じるしかありません。

しかし今の時代に生きながら、必要性もないのに苦労することもありません。ただ先人と時代の恩恵に感謝しながら、今にできることをすべきですよね。今にできることは何だろう? まずは、知ることかな。知って、知ったことを覚えて、記憶して、記憶したことから・・・うん、たぶん何か変わるんだと思う!




キリシタンの世紀


ザビエルからおよそ一世紀、布教から発展、迫害に至るまでの期間を、「キリシタンの世紀」と呼ぶことがあります。しかしこの「キリシタンの世紀」は細かく知れば知るほど、全体像が見えにくくなるきらいがあります。

迫害と一言で言っても、時期や場所によって違い、資料も地域によって多寡があり、政府側と宣教師側との言い分に食い違いがあるのは当然としても、宣教師側でも修道会によって微妙な温度差と捉え方の違いがあります。

迫害の嵐が目前に迫っているこんな時に、よくもまあ修道会同士で反目していられたなと、時には資料を読みながら呆れてしまうことも。だけれど、こういったことも全部、現代へのメッセージではないかと考えるようになりました。

昔あったことが今もあり、今あることが昔にもあったと聖書に書かれているように、自分もやるだろうし、気をつけるべきことがそこから学べるのだと。そうであるならば、メッセージから得た教訓をよく覚えていくことが、先に生きた人たちを糧にしていくことになるのではないでしょうか。

「キリシタンの世紀」は数百年前に終わったけれど、自分が生きる、大切な今の世紀が進行しています。昔のことを知りながら、覚えて今を生きることに使っていきたいです。

それから・・・、昨日「むざむざ死んだ」と言いましたが、今回はその「むざむざ死んだ」先人たちのお陰で出会った人たちがいて、共に過ごす中で恵みと悟りを分かち合えたんですから、彼らは絶対に「むざむざ死んで」はいないですね。つながりを見出すときに、時を超えて生き続けているものが見えてくるのだと知りました。すべてのことを主に感謝 (*^^*)





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