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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 北国の使徒たち 9


いのちというのは、自分だけのものではなくて、だれかのために使えてこそほんとうのいのちではないだろうか。――と、星野富弘さんが言っていました。

殉教者たちから、今を生きる者は一体何を継ぐべきなのか、今日も考えてみたいと思います。私も誰かのために命を使うことができたなら、小さな使徒になれるのではないかと、分不相応な野望を抱きつつ・・・(*^-^*)しゅっぱーつ!


養浩館


福井市内でい昨日見られなかった所を回ろうとしていたら、信号待ちで養浩館を見つけました。

まだオープン前のようで興味を持っていなかったのでスルーしましたが、後で調べてみたら、こちらは福井藩主松平家の別邸で、5代藩主 昌親が現在の姿に整えたんだとか!

うそっ、昨日チェックしてた人やん。キリシタン江戸送りにした藩主です。ああ、ちょっとくらい見ておけばよかった。ぐるりと周囲を回ったので、なんとなくは見られたのだけど。



養浩館

養浩館

養浩館

カトリック福井教会


見ておきたかったカトリック福井教会はそのすぐ近くに。

聖堂のお掃除にいらしていた方が声をかけてくれたのですが、もうカギをかけて出てらしたところのようだったので、外観だけ見てお暇しました。

ちょっと今日は遠くまで行くので、お急ぎモードで (^-^;


福井宝永教会


福井宝永教会も外からだけ。プロテスタント教会は概して常時オープンではないので、外観だけになることが多いです。

こちらは福井市内で最も早く伝道を開始したプロテスタント教会だから、見るだけでも見たかったんですよね。

1890年に伝道開始というから、軽く百年を超えています。全国の百年教会を全部回ってみたいという野望がふつふつ湧いてくるのを覚えつつ・・・。



板取宿に向かって


それでは福井市内を後にして、板取宿方面に向かうこととしましょう!

今日は南条郡で昔の宿場と峠を見て、敦賀市を訪ねてから、賤ヶ岳に登って彦根に泊まる予定。賤ヶ岳が最後に残っていることを思うと、どこででもゆっくりしている暇はなさそうなのです。

今日天気が崩れると予報で聞いたのだけど、山登りで大雨だけは困ります。なんとか降らずにもってくれますように☆



板取宿?


山道にしては車通りの多い国道365号線をぐねぐねと登って行くと、板取宿の案内板が。

やったーと思って進んで行くと、墓地と民家にたどり着きました。うーんと、ここじゃないっぽい?

昔は宿場町の一角だったんでしょうけど、観光用として残してあるのはここではないようですね。道一本間違えると人の家に着いてしまうので、皆さんお気を付けを!(ええ、私が気を付けましょう~)



案内板

解説板

墓地

板取宿


こちらがほんとの板取宿。

観光用のサイトにはもっとキラキラした感じの写真が載っているんですが、実際に来てみると様子が少し・・・。

あのう、控えめに言って、、朽ちかけてます?(これ禁句かもしれない;;)

こういう建築物を維持するのって相当大変で、ロマンや何かでは語れない苦労があるんでしょうね。住み続けるのも難儀だろうし。それを通りがかりの観光客があれこれ評してはいけないのです!・・・とは思うものの、県の観光協会とか地方自治体がもうちょっと力を貸して維持してもいいかと思いますよ。ほら、朽ちかけてますから(それ言っちゃダメ)。

ちょうど家から出てきた人がいて、都会の公務員風だったので驚きました。この後に行こうとしている峠への道が分からなかったので尋ねたのですが、とっても現代人で(当然だよ。失礼だよ)、親切に教えてくれました。やっぱり観光協会が手をかけて整備してくれたらと思います。

だってここ、たぶん高山右近が通ったのだもの!そうそう、それが言いたかったんですよね。そのために来たんだし。価値あるわー。



板取宿

朽ちてはいない

朽ちてはいない…?

板取宿

板取関所跡


茅葺屋根の4つの民家を通り過ぎ、少し登ると板取関所跡と書かれた物見櫓が。

関所があったんですね。昔は越前への玄関口として重要な番所が置かれていたようです。

なるほどこのルートなら監視の目も光らせやすく、右近追放の道と考えても納得がいきます。


右近追放の道


追放されることとなり、金沢を発った右近一行がどんなルートを通ったのか、実はよく分かっていません。栃ノ木峠ルートと木の芽峠ルートという、大きく2パターンが考えられるのですが、記録では裏付けられるものがなくて。

遠回りだけど緩やかな傾斜の栃ノ木峠ルートと、距離は短いが急峻な木の芽峠ルート。恐らくですが、右近が追放されて行くときは女子供を連れていたので、栃ノ木峠ルートではなかったかというのが地元研究者の説です。で、板取宿は栃ノ木峠ルートの関所なので、右近追放の道に相当するんじゃないかということですね。

ここを・・・越えて行ったのかな? 右近に内藤如庵、そしてその家族たちが。その場に立ってみても、そこにいるから尚更なのかもしれないけれど、実感は湧きませんね。実感は湧かないけれど、そうだったのかもしれない。右近追放の道は、結構混沌としているかもなぁ。。(*_*;



板取宿

板取宿

民家

木の実♪

栃ノ木峠


茅葺屋の住民から教えてもらった栃ノ木峠はこちら。なだらかで遠い道のりですね。

今のような新道は通ってなくて、山越えの長い長い道は、歩いても歩いても果てしなく続いているかのように感じたかもしれません。

マニラに追放、そして死と、右近の生涯は劇的に語られることが多いけれど、実際には地味に嫌なこと、皮肉なことが多い、忍従の生涯だったのかも。ちょうどこの長い長いルートのように・・・。



木の芽城塞群図


では次は木の芽峠ルートを探ってみましょう。まずは木の芽城の跡へ。ここまでの道、結構険しいです。スキー場の管理道を通って登ってくるんですけど。

山城があったようですね。城攻めの人はこれを目当てに来るのでしょう。登城口が草に覆われていて、え、道あるの?って感じですけど。


周辺地図

展望台

木の芽城周辺

野鳥も♪

木の芽古道


所々石畳になる林道を進んで行きましたが、木の芽峠には到達できず、木の芽古道にだけ到達できました☆

峠越えのルートなら、ここを通ったはずなので、満足しましょうかね。天気が崩れそうで、これ以上時間もかけられないので^^;

この木の芽峠ルートは、右近が金沢に向かうときに通ったと考えられます。また忘れちゃいけない、浦上キリシタンもです!

右近の時代から浦上キリシタンまで250年ほど差がありますけど、同じ道を歩んだだなんて、一本の糸がつながっているようで不思議です。お互い相手のことは知る由もないのに、同じキリスト教を信じたがために険しいこの道を通ることとなったのだから・・・。両者を知っている神さまは何と思われていたんだろう。

現代に生きているお陰で、私はこういう一致を時々見つけるのだけど、その度ごとに不思議な感興に胸が騒ぎます。何か見つけちゃった、みたいな。願わくば、この意味を解き明かして証したいのですが、そこまでは至れないんですよね。神さまは胸のすっきりするような答えを持ってらっしゃるだろうに。



木の芽古道

解説板

木の芽古道

サルナシ発見♪


 では敦賀へと♪


敦賀城跡


さあさ、賤ヶ岳が私を呼んでいる!先を急ぎましょう。でもその前に敦賀へ☆

せっかく福井県まで来たのに少しでも踏めなかったら、敦賀なんて次いつ来られるか分からないし(太平洋沿岸に住んでいると、日本海側ってそんなイメージ)。

車を走らせ、大谷吉継の居城だった敦賀城跡に到着。西小学校前に石碑があります。

何年か前の大河ドラマを機にすごく人気が出た大谷吉継ですが、キリシタンだったことがあまり知られていないのが残念。キリシタンだったんだよー!心の中で叫んで溜飲を下げる私。

立派な解説碑があるのにキリシタンだったことは一切触れられていないだなんて。不満を抱きつつも、城跡に来たからいいかと思って立ち去りました。しかし、これがまだイントロダクションだったと知るのは後のことである――。(古いドラマみたいなセリフ回し)



西小学校

敦賀城跡

敦賀城古地図

永賞寺


続いて永賞寺へ。大谷吉継生前よりの菩提寺で、吉継の供養塔と伝承を持つ慶長14年造立の層塔があるそうな。

キリシタンに「菩提寺」って、まあ、無くはないけど・・・。

「吉継の供養塔」というのもねぇ。キリシタンから離れていってる感じがしますねぇ。



大谷吉継の供養塔


こちらが大谷吉継供養塔。解説板には「吉継は病がちのため信仰心が厚く神社仏閣に多くの寄進をした」とあります。

うむー、解説文を読む限り、キリシタンではないですね。その上「切腹」と書かれています。

自害というのも、自殺を禁じるキリスト教の教えからは外れています。何だか眉間に皺寄ってきたー (-"-)



大谷吉継供養塔

解説板

永賞寺

永賞寺

松林


海岸に沿って植えられた見事な松林。これも大谷吉継が整えたのかな。吉継公は慕われているようです、今も住民に。

だけどキリシタンだったことは・・・自分でも忘れちゃってたのかな。

吉継がキリシタンになったのは、1585(天正13)年頃のこととされ、この時期は黒田官兵衛や蒲生氏郷が受洗した、いわばキリシタン最盛期。だけれど2年後の1587(天正15)年には秀吉が伴天連追放令を出して、その勢いが急速に衰えていきました。

秀吉の右腕だった軍師 官兵衛でさえ、表面的には信仰を棄てたような恰好で隠居しました。そんな状況で信仰ゆえに大名やめるなんてことをやってのけたのは高山右近だけで、他は大人しく静まりかえったのです。機をうかがった者もいたでしょうが、ほんとに棄教した者もいたのは想像に難くないです。

大谷吉継は1589(天正17)年に越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主となったのですから、棄教したか、棄教したかのように見せかけたかのどちらかです。もしその時点では内心信仰を維持していたのだとしても、当地で宣教師たちから助けを受けられなかったとしたら、信仰を失ったとしても無理からぬことかと。敦賀・・・ここまで遠かったもんなー (>_<)



常宮神社


ダメ押しみたいに常宮神社へ。吉継が朝鮮の役で持ち帰った朝鮮鐘(なんと国宝!)があり、この鐘は1597(慶長2)年に秀吉の命により、吉継の手で常宮神社に奉納されたのだとか。

秀吉の寵愛受けてちゃ、キリシタンの可能性ゼロですね。ああぅ。どうりでどこの解説板にも「キリシタン」の文字がないはずだ。



朝鮮鐘


朝鮮鐘はこの中に。倉庫しか見られないなんて。解説板に写真載ってますが、相当大きな物のよう。

朝鮮の役に行ってどこかのお寺から奪って来ちゃったんでしょうけど、返還請求とか大丈夫なんですかね。

それもあって展示してないなんてこと、ないといいですが。



常宮神社

解説板

常宮神社

テラスから


常宮神社前に木製のテラスがあって、そこから海岸線が一望できました。

敦賀って、確か原子力発電所が多く建てられていますよね。それから杉原千畝が発行した命のビザで、迫害を逃れてきたユダヤ人が上陸したのも敦賀の港だったかも。

ついでに言うと、統一教会の桜田淳子さんが結婚して暮らしているのもこの町だったかと。

記憶を探ればガタゴトと、いくつかの項目が思い浮かんできます。敦賀のこと、大谷吉継以外にもちゃんと下調べすれば良かった。テラスから視界に入る範囲にも、きっと知るべきことがあるだろうに。おまけに吉継の棄教はほぼ確認できちゃって。あー、海。グレーに見えるのは私の心象風景?



敦賀の海

敦賀の海


 滋賀へと参ります☆


トンネル


で、出そう・・・( ;∀;)

福井から滋賀へ抜けるトンネルが薄暗くてじっとりしていて、まるでホラー。幽霊とか見えない人でも、「あそこに女の人が!」とか言っちゃいそうな。

下手なお化け屋敷とかよりずっと怖いです。この冷気(霊気?)、真夏ならシャレになるのかなぁ。。



黒田家始祖御廟所


そんなこんなで滋賀へ。長浜市にやって来ました。賤ヶ岳があるからなのですが、その前にもう一か所、木之本の黒田家始祖御廟所へ☆

黒田官兵衛の先祖、黒田氏発祥地です。黒田氏は京極氏の初代氏信の孫である宗清(宗満)が近江国伊香郡黒田邑(長浜市木之本町黒田)に屋敷を構え、黒田姓を名乗ったことが始まりとされています。

この場所から「源宗清」と刻まれた石塔が発見されたため、ここが黒田氏発祥地であるとされたんですね。ちなみに官兵衛は黒田氏の八代目。キリシタン大名の始祖の地というだけでも寄ってみたいという、この根性。見上げたものだと褒めてください!(え、呆れる・・・?)



「源宗清」と刻まれた石塔


こちらが件の石塔。覆い屋の中に入っています。「源宗清」と刻まれているのがわずかに確認できますが、石自体がちょっと新しい物のように見えなくもないですねぇ。

レプリカってことはないんでしょうけど。土の中に埋まってたとかで、劣化が進んでいないのでしょうか。うーん、石の材質もすごく高級な石材ということではなさそう。

黒田集会所の外壁には現在に至るまでの黒田家資料がたっぷり。へぇ、官兵衛の子孫さんたちはこんな顔立ちなんだと、興味深くはあります。長浜市といっても広くて、ここまで来ることなんて滅多にできないから、寄れて良かったです。

官兵衛はここに来たことがあったのかな? 私は八代前の先祖とか知らないけど、昔の名家なら知っていてもおかしくないですね。その上戦(いくさ)で近くまで来ているから・・・。想像はふくらむけど、なかなか確信は得られないですね。昔のことって、細かいところまではなかなか分からなくて (*´Д`)



黒田氏発祥地

解説板

「源宗清」石塔

黒田家資料

賤ヶ岳登り口


ついに賤ヶ岳到着! 来たくて来たのに、あー、来ちゃったよという感じもします。

賤ヶ岳砦である山頂まではリフトがあるのですが、シーズン中の土日祝しかやっていないということで、フツーに山を登らなければなりません。

登山が趣味ならいいんですが、私は完全なるインドア派で、高地が特に苦手。それで今日は朝から登山ファッションで、ストックまで持って来たんですよね。それでも頂上まで行けるか五分五分だな。。しかしここまで来させてもらって感謝だし、やっぱり見たいぞ、右近が戦った場所!

さぁ行きましょう。登山口にはなぜか十字架が。積雪時の道標か何かでしょうけど、主が共にしてくださっているのだと信じて(勝手に解釈して)レッツゴー。はぁ、心臓バクバクする...。



最初は緩やかな坂道


賤ヶ岳、最初は緩やかな坂道です。小雨が降ってきましたね。大雨にならなければいいんですけど。じゃあ、急がなくちゃかな?

いやいや私の数少ない登山経験からすると、最初に張り切ってしまうと途中から急にバテてしまうという教訓が。ゆっくりゆっくり♪


ネットの情報によると、 大岩山経由で賤ヶ岳へ登る場合、登山口→賤ヶ岳山頂(登り)1時間50分、賤ヶ岳山頂→余呉湖荘(下り)40分、余呉湖荘→登山口(平坦)50分が標準のよう。山頂までの登りさえ制覇すれば後は何とかなりそうですね。

賤ヶ岳の戦いは、この山はもちろん余呉湖を囲む山々全体で行われました。戦場って私が思うよりイメージするより実際はずっと広いんだなと。この山は主戦場で、高山右近と従兄弟の中川清秀の陣があった所。そして激戦地ですね。死屍累々だった山と、血で真っ赤に染まったという湖。そこを400年後に私が歩いているという不思議――。やはり歴史は自分を含めてのミステリーなのだ、と思います。



優雅な蝶♪

山道

大岩山


1時間ちょいで大岩山に到着。ここが頂上でもいいなと思うくらい体力消耗してます(予想通りの展開;;)。

中川清秀の陣があったのが大岩山で、討ち死にしたので墓所があります。右近の陣があったのは岩崎山で、山の背を伝って700mくらいだそうですが、そこへの道が分かりません。。

行っても良い登山道は山頂に続くものだけだし。とりあえずは中川清秀の墓所へ向かってみましょう。少し山道を横手に入った所にあるようで、案内板が出ています。



中川清秀の墓所案内

大岩山

解説板

中川清秀の墓


中川清秀の墓所は森閑とした山中に、寂しさ満点に佇んでいます。

墓を囲む門扉にはいわゆる中川クルス紋。これをキリシタンであった証拠に挙げる人もいますが、私は懐疑的です。

清秀の墓は・・・「いつまでも放っておいてほしい」と言っているように見えますね。武士(もののふ)が、自らの失態で死ぬときは、そんな心境になるものなんでしょうか。構ってほしい、自分のことを覚えておいてほしい、思い出して称えてほしいとは思ってないように感じられます。戦いの顛末を本で読んで知っているから、後の世の者が勝手に想像しているだけかもしれませんが。

それにしても薄ら寒い感じのする所です。一人で居たら逃げだしたくなるほど。無数の目が息を殺してこっちを見ているようにも思えますし。想像ついでに言うならば、どうやら清秀はキリシタンではなかったっぽいですね。この雰囲気からして(雰囲気で判断するなんて主観入りまくってますが)、たぶん。



解説板

中川清秀の墓所

案内板

中川クルス

首洗い池


少し下った所に、清秀の首を洗った池があるそうです。悲惨ですね、首洗った水源まで晒されるなんて。ネット社会の比でないくらい、歴史は歴史で過酷です。

秀吉の陣があった場所は「猿が馬場」と名付けられています。秀吉へのリスペクトが0みたいですが、よろしいのでしょうか。。(私が気を遣うこっちゃないが ^^;


賤ヶ岳の戦い


賤ヶ岳の戦いは、1583(天正11)年に起きた羽柴秀吉と柴田勝家の戦い。信長が本能寺に斃れると、中国から大返しした秀吉は山崎の戦いで明智光秀を討ち、続く清州会議で政治的勝利を収めました。それに対して反秀吉でスクラムを組んだのが、柴田勝家、織田信孝(信長三男)、滝川一益。

北伊勢の滝川一益と、岐阜の信孝が秀吉軍の猛攻を受けていたので、戦いには不向きな冬季に柴田勝家は出陣に踏み切りました。勝家対秀吉の両サイドが対峙したのが、天嶮を成すこの地。高山右近と中川清秀がついたのは秀吉サイドでした。

結果的に見たら秀吉側が勝つのに、どうして中川清秀が悲惨な死に方をしたかというと、そこには清秀の「欲」が絡んでいます。いやそれよりも前に、勝家サイドの佐久間盛政の「欲」があったのか。「あの時こうしていれば・・・」というのは、いつの世の誰にでもありますが、右近もきっとこの後何度もその日のことを思い出してはそう考えたと思うので、ここはしっかり押さえておきましょう。


清秀死す


賤ヶ岳の戦いが本格的に始まる前のことでした。秀吉軍の第二陣を構成する、高山右近と中川清秀の陣が手薄であることを知ると、佐久間盛政はこれを奇貨とし、いわゆる「中切り」の作戦を立てました。背後から猛攻を仕掛け、敵を撃破したらすぐに陣に戻るというものです。

佐久間盛政の策を聞いた勝家は、初め賛同しませんでしたが、しぶしぶ承知し、撃破したらすぐに引き返すよう念を押しました。1583(天正11)年4月20日午前2時頃、漆黒の闇にまぎれて佐久間盛政の軍7千人が動き出し、右近と清秀の陣に襲いかかりました。右近と清秀の兵力は共に千程度。砦はさしたる防御も施されていませんでした。

激戦は数時間に及び、清秀は戦死。孤軍となった右近は辛うじて死地を脱して、後方の羽柴秀長の陣に辿り着きました。しかし「勝家動く」の報に接した秀吉は手を打って喜びました。佐久間盛政の奇襲は、勝家軍の堅い守りが破れたことを意味し、勝ちに目がくらんだ盛政は、勝家に急かされても引き返すことをしなかったのです。


賤ヶ岳の七本槍


秀吉は大垣から13里(およそ52キロ)の道を5時間で疾走し、20日の午後8時に本陣に到着。これを知った盛政軍は慌てて退却に転じようとしましたが、秀吉は福島正則、加藤清正ら腹心の武将たちに突撃を命じました。これが世にいう「七本槍」。盛政は敗走し、勝家側についていた他の軍勢も撤退を余儀なくされました。勝家軍の敗北が決まったのです。

勝家は北ノ庄城に逃れましたが、4月23日、前田利家を先鋒とする秀吉の軍勢に包囲され、翌日に夫人のお市の方らと共に自害。佐久間盛政も逃亡しましたが、黒田官兵衛の手勢に捕らえられ、後に斬首されました。レ・ミゼラブル。ふざけて言ってるんでなくて、ほんとに。




首洗い池

猿が馬場

猿が馬場

最後の登りがキツイ


蛇やムカデに不意を突かれ、時折悲鳴を上げながらの登頂。最後の長い登りがキツイです。

他に登山客を一切見かけないというレアなシチュエーションを幸いに、ペースを落としてのそのそ。

佐久間軍は湖の西側を回って攻めてきたというから、この道を走り下って中川軍に猛攻を仕掛けたんですね。7倍もの兵力で。そりゃ死ぬわな。逆に、右近よく助かったと思います。フロイスの記録によると、この戦いで妻の父と義兄弟2人を失ったとか。苦い杯だったでしょうね。


清秀の「欲」


先ほど中川清秀の死には「欲」が絡んでいると書きましたが、それは清秀には右近のように助かる道が少しだけあったからです。佐久間軍の侵攻をいち早く発見した丹羽長秀の家臣 桑山重晴が、右近と清秀に使いを出して、本陣のある所まで来て合流するように伝えました。

このとき従っていれば生き延びた可能性があります。しかし清秀は従いませんでした。「中川家譜覚書」によると、「勇を誇る清秀が、桑山や右近の言葉に耳を貸さなかった」とあり、右近も清秀に引くように言っていたことが分かります。

でも清秀は戦いたかった。逃げるなんてもっての外だと考えて、戦功を挙げられるものなら挙げたいと思ったのでしょう。もちろん不利だとは分かったでしょうけれど、自分なら勝てるかもしれないという自信もあったのかと。

「欲」を、より聞こえのいい「意地」と言い換えてもいいんですが、武将には武将の「欲」があることは否定できません。これが当時の常識的考え方でもあったのですから。しかしそれが死を招いた訳ですね。そうすると右近が生き延びられた理由も一つ。戦功という「欲」のために「意地」を張らなかったことです。

信仰は単に心の中で神さまを信じているだけのように見えて、実際は行動を根本的に決定するもの。右近の価値観が、自らの命を助けたと言っても過言ではないのではないでしょうか。



木々

木々

頭上も木々

山頂!


やっと頂上へ!! 普通1時間50分かかるところを2時間半ほどかけてしまいましたが、小雨降る足元の悪い中だったことを考えれば、まずまず♪(自画自賛)

山頂は芝生にベンチとか置かれていて、もちろん解説板や碑はあるけど、ピクニック用に整えられちゃってるのはどうだろう?という感じ。予想以上の軽やかさに戸惑いました。あのう、ここ有名な古戦場なんですけど。。

狙ってかどうか不明ですが、賤ヶ岳古戦場に人々が求めるイメージを軽くいなしてる感ありますね。開いた穴から顔を出し記念撮影する看板(顔出しパネルというらしい)が、ほほえましくもストレンジ光景を作り出しています (;''∀'')



武将の像


こちらが唯一、賤ヶ岳の戦いを彷彿とさせる像。

これ見たかったですねー。登り坂に耐えて良かった☆

戦いに疲れ果てて座った瞬間なのか、座ったまま死んでいるのか、時が止まって兵士がそのまま像になってしまったかのよう。

こういうものなんでしょうね、戦いの後の空しさというのは。人を殺した人間が、同時に自分も死んでしまったように感じる喪失感。空っぽで救いのない、どうすることもできない寂寥感。この合戦の後にも生き残った人は生きていくのだけど、このときの索漠とした気持ちを忘れられなかったのではないでしょうか。

それにしても見晴台から望む余呉湖の美しいこと。疲れもストレスも飛んでいきます。人もいないし、一曲歌っていこっと♪



山頂

山々

石碑

解説板



顔出しパネル

解説板

周辺地図

余呉湖

余呉湖


下りは登りほどは大変ではなく、何とか標準タイムで何とか下へ。湖畔をあと小一時間歩けば駐車場に戻れます。

思えば、右近は金沢から追放されて行くとき、賤ヶ岳やこの余呉湖の近くを通って行きました。

従兄弟の清秀の顔を思い出したでしょうね。そしてここでの戦いも・・・。右近追放の道は、生涯を振り返る道だったのかもしれません。



下り道

飯浦越切通し

余呉湖

ひたすら歩く


西の方から遠雷がゴロゴロと近づいて来ているので、急いでテコテコ。前方に小さく見えるのが私です(←)。

夫が余裕を持ってゆっくり歩いているのは、いざとなったら走れるからで、私みたいに小心じゃないから。

でも今にも泣きだしそうな空で、黒雲がみるみるうちにこっちに向かってくるんです。急ごうよ、テコテコ。



自然歩道

風の呂が浜

花♪

岩崎山の大岩!


急いでいた歩みを止めて、二度見してしまったのがこちらの解説板。「岩崎山の大岩」と書かれています。

岩崎山ですとー!?

右近の砦があった所じゃん!右近がいた所じゃん!右近が死にそうになった所じゃん!(注:全部同じ場所です)

きゃー、神さまありがとー(≧∇≦)ダイスキー



岩崎山遊歩道入口


大岩山から行けるかと思いきや、登山道がなくて断念した岩崎山は、なんと下から行けるようになっていたんですね。

知らなかったー。いや今知れただけでもマンモスうれしい(この言い方久し振りにした。これから時々使おう)。

だけど、ここからまた賤ヶ岳登山は辛いかな。時間的に無理だし、雨雲レーダー鳴ってるし。第一この道、「遊歩道」って書いてあるけど、すごい急そう。しかも雑草覆われまくり。獣道かと思うくらいです。下から眺めるだけで満足としましょうかね。



岩崎山の大岩

遊歩道入口

「岩崎山砦跡」解説板

「遊歩道」はないな

岩崎山


「岩崎山砦跡」という解説板に、右近の名前が出てきて欣喜雀躍しましたが、よく読むと・・・。以下に記します↓

「岩崎砦跡
高山友重右近大夫の砦跡であるが高山右近は戦わずして木之本に退いた所。
今は砦跡らしいものは何も残っていないが岩崎山の大岩くぬぎの森として残されている。」

いやー、恐れながら申し上げますが、文章下手過ぎでしょっ!

まず言わせてもらうと、句読点の打ち方よく分かってませんよね? この文章だと二か所読点打たないとダメですよ。また敢えて赤字にしましたが、であるがいないがの連続もおかしいでしょ。それが係っている文章との関連性はもっと変。「砦跡であるが高山右近は戦わずして木之本に退いた所」って、どうよ?

内容云々の前に作文として落第じゃないですか。こういうのって地元の偉い研究者が書くのかもしれないけど、校閲に相当することは解説板を設置する側ですべきことですよね。それをすごーく怠っていると思います。


高山右近は敵前逃亡したか?


そして絶対に看過できないもう一点は、「高山右近は戦わずして木之本に退いた」という記述。戦いましたよね? それで戦死者も多く出した訳で。奇襲を仕掛けられた側で不利だったので、防戦しながら結果的に退却をしましたが、これを「戦わずして」とは言いません。

また中川清秀に本陣へ移動して合流するよう申し伝えた桑山重晴は、右近の元にも同じ内容のことを申し送ったのですが、右近は「要害の儀は面々の持ちに仕るべく」と使いに答えて、すぐには従わなかったのです。すぐには従わずに一旦全力で戦ったけれど、多勢に無勢で戦死者も増していったので、全滅させないために退却を決めたのです。戦ってますよ。ちょっと聞いてます?

たぶんこれ書いた人は「余呉物語」の「右近は敵にただの一撃もあたえず逃げだした」という記載を参考にしたと思うんですが、「中川家譜」には「長房(右近のこと)ガ従士モ来リ、入替リテ戦フ」とあります。史料としては「中川家譜」の方がより信憑性が高いことは言うまでもなく、しかも死んだ中川清秀の家に伝えられているんですよ。右近の軍が助けに来なかったとしたら、そう書くはずがないではないですか。

史料ちゃんと読めや、ボケー!と叫びたいところですが、ここは大人の対応を。書き換えてください、正確なものに。もったいないわー、こんな重要な史跡にお粗末な解説板って (--〆)ムスー




どしゃ降り


解説板にはプリプリしながら、でも岩崎山を見られたことは良かったなと思いながら、駐車場に戻って車に乗ったら、天が破れたような大雨が。

どしゃどしゃのどしゃ降りです。彦根に向かう高速道路は、雨煙で前が見えないくらい。危なくて祈らずにはいられません。宿に着き、全てのプログラムが終わったんだなと感じました。

翌日の自宅への帰り道も雨雲に追い立てられるようにして東へ。ドキッとするような危ない瞬間もありましたが、それでも無事に帰ってくることができました。「無事かえる」という、昔からの安全標語がとってもいいものに思えた夕べ。こんな長期の旅行はそうそうできないから、旅を振り返りながらずっと感謝していようと思います♪



彦根への道

浜松

無事かえる

雨雲



私の命題


今回は佐渡から北陸三県、賤ヶ岳まで縦横無尽に走り回り、人が生き死にしてきた歴史の現場を目の当たりにしてきました。殉教地や戦場、あるいは昔の町並みを歩きながら感じたのは、死とは圧倒的、有無を言わさぬものだということ。死に打ち勝つ方法は生き続けることだけですが、人はモータルな存在で肉体は永遠に生きることができません。

だから人は何かを残し、継いでいくことを願うのでしょう。私に受け継がれ、私を支え生かしてくれる力を、私もまた一つの輪となって、その思いをつないでいく。そうやって生き続けていくことが最も尊いのだと悟らせてもらいました。

研究者でもなくせに、私のキリシタン史とは?と問い続けてもきましたが、その答えもそこにある気がします。キリシタン史は今につながるものを見つける宝探しで、見つけた宝を受け継いでいく継承の物語ではないでしょうか。

その物語は学ぶことで始まるけれど、熟成するのは私の中で。私は日々老いていくけれど、受け継いでいくことで永遠に生きることもまた同時にしているということができるのです。それはとっても希望あること。

過去から未来へとバトンを継いでいくのに人生一回分は短いけれど、ひたむきなその姿はきっと後から来る世代を励ます力を持っている――。そう思ったら、北国で出会った小さな使徒たちの顔が浮かんできて、笑って手を振りたいような気持になりました。いつかまたどこかで会えますかね…(*´▽`*)ハレルヤ




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