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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 北国の使徒たち 8


今日は加賀市から福井へと、県をまたいで回ろうと思います。今の小松市と加賀市は昔、大聖寺藩で、大聖寺藩預けの浦上キリシタンがやって来て流配所で暮らしたのです。後に富山藩へ移動していった人たちも、一旦は大聖寺の流配所に入れられましたし。福井は史跡めぐり初です。殉教地もちゃんと探しあてて行けるといいな。今日も主と共に (o^―^o)ノ



大聖寺城


加賀温泉駅で、福井人のYちゃんと加賀人のAちゃんと合流。今日は地元民の助けを受けながら回る感じです。

まず向かったのは大聖寺城跡。別名は錦城で、現在は錦城山公園となっています。花の季節はキレイなんでしょうけど、今だと緑したたる・・・と言えば聞こえはいいんですが、ちょっと雑草多めですかね。


大聖寺城攻めと高山右近


大聖寺城は1600年9月、高山右近の進言により攻められ、落とされた城。当初、藩主の前田利長は小松城を攻めるよう指示をしていましたが、右近はそれに対して珍しく異議を唱え、守りの薄い大聖寺城を攻めるべきだと進言したのだとか。

金沢からだと手前に小松城があるのですが、そちらを先に攻めるだろうと、大聖寺城主の山口玄蕃は油断しており、守りも手薄でした。軍備を怠り、奢侈に暮らしていたとも伝えられています。一方小松城は守りを固めていたので、前田軍が全力で攻めても多くの人的被害が出ることが明らかで、それでは士気に関わるだろうと右近は読んだのです。

右近の策を取り入れた前田軍は大勝利を治め、山口玄蕃は自刃。この戦いは関ヶ原と並ぶ時期に行われた局地戦でしたが、ここで金星を挙げた功績は大きく、それまで八十三万五千石だった前田家は加増され、一気に百十九万五千石の大大名にのし上がりました。加賀百万石の誕生ですね。そのきっかけとなった大聖寺城攻めは、もう一つの関ヶ原とも呼ばれています。



大聖寺城跡

解説板

贋金造りの穴

贋金造りの穴解説板

眺め


犬の散歩にもってこいの坂道を登ると、城下に小学校が。

Aちゃんはこの小学校出身だそう。今日はとりわけ地元民で周りを固めてもらったようです♪

こんな日にはどんな発見があるんだろうと、ちょっと楽しみが増してくるような。昨晩から、現在とのつながりを見つけながらキリシタン史を俯瞰していきたいと思っていたので、それに応じた働きかけを神さまがしてくださっているのかもしれません。

うん、なかなか良い眺めですね。風に乗って小学校のチャイムが聞こえてきます (o^^o)ナツカシー



大聖寺城跡

大聖寺城跡

山口玄蕃記念碑

解説板

テクテク


次の目的地は浦上キリシタンの流配所。最初に入れられた牢(庄兵衛谷の射的場)があった所までは、無料駐車場(都会人には信じられないほど便利な場所に無料駐車場が設けられている!)から徒歩3分。

穏やかな風景の中をテクテク歩きます。こんな所に長崎から流されて来た信徒を入れようだなんて、どういう発想でできたのか。

中心部から離れていて、人目に付きにくいというのはあったでしょうね。入れられたのは射的場の長屋というから、弓矢や鉄砲の稽古をしても問題ないくらい周囲に何も無かった様が想像されます。その長屋を仕切って牢にして、83人を収容したことから考えると、結構規模は大きかったはず。だからちょっと田舎になる外なかったのでしょう。

・・・などと、流配地や殉教地に慣れている私は考える訳ですが、初となる彼女たちがどんな反応か若干心配です。「こんな所ばっか回ってるんだ、この人たち」みたいな視線は避けたいところですが、果たして!?



庄兵衛谷の射的場


「あ、ここだ!」

三俣俊二著「金沢・大聖寺・富山に流された浦上キリシタン」の中にある写真とほぼ同じだったので、すぐ分かりました。

苦戦しなくて良かったー。ここは是非とも見つけたかったんですよね、殉教地でもあるから。無事見つけられるようお祈りしちゃうくらいに。Thank you my Lord!


大聖寺藩預けの浦上キリシタン


大聖寺藩預けとなった浦上キリシタンはどのような路程を通ってここまで来たかというと、以下の通り。


1870年1月6日(明治2年12月5日)、浦上村を出発。
 ↓
玄界灘の狂乱怒涛に悩まされた末、大阪に到着。
 ↓
大聖寺藩からの受け取りをする役人が来てなくて兵庫へ。神戸で引き渡し。
 ↓
明治2年12月20日、道頓堀に上陸。米蔵に押し込められる。
 ↓
三隻の船に分乗して伏見へ。厳冬極寒で目も口も開けられなかった。
 ↓
歩いて大津へ。そこから琵琶湖西岸に沿って歩くこと14日。吹き付ける雪。
 ↓
明治3年1月12日、大聖寺到着。



遠かったでしょうよ。乳飲み子や老人もいるのに、よく一月以上もかけてほとんど歩いて来たものだと思います。ここに着いたときの人数は83名で、後に33名が富山藩へと送られます。富山グループは金沢からのグループと合流して、凍った俱利伽羅峠を越えて行っただなんて超人的、いや、行かされただなんて過酷過ぎです。死ねと言ってるようなものですから。

もちろん残された大聖寺藩の信徒たちも悲惨でした。庄兵衛谷の射的場にいるときに、3名が死亡。その後、富山藩同様、浄土真宗の各寺に分囚されて、最終的にもう3名が死亡しました。だから大聖寺藩での殉教者は計6名ですね。

50名中6名が多いかどうか・・・、パーセンテージでいうなら他藩より少ない方です。死亡率3割超えてる所がザラにありますから。だけど命に対して、パーセンテージでの判断はふさわしくないでしょうね。ここで亡くなって、名前が分かっているのは3人だけ。忠蔵、サノ、ツネ。皆子供でした。



庄兵衛谷の射的場

庄兵衛谷の射的場

今は墓地

専称寺


では庄兵衛谷から分囚されていった浄土真宗の各寺へ。50人のうちの数人だけ庄兵衛谷に残し、小松市と加賀市に散らばる23カ寺に散らばらせました。

全部を回るのは無理なので、代表的かつ象徴的な所だけですけど。まずは専称寺に来てみました。やはり大きな寺院ですね。「格」があることがうかがえます。

浦上キリシタンを預かった藩では、彼らを棄教させるために浄土真宗に白羽の矢を立て、それが可能であるか、専称寺に打診しました。それを受けて浄土真宗の寺々は、西は専称寺、東は豪摂寺に集まって協議。浄土真宗に呼びかけがあった以上、神道など他が引き受ける前に進んでこれを受け、評価を得ようということで意見が一致しました。

信徒を23カ寺に分けて収容し、棄教を勧める説諭は8カ寺(専称寺、豪摂寺、勝光寺、本善寺、慶徳寺、専光寺、勝林寺、蓮照寺)が担当することとなりました。そこで明治3年3月末から説諭が始まり、専称寺に3人の女性が呼び出され、役人も立ち会って改宗を迫りました。

説諭を担当した者には藩から酒一斗、鯛の作り身2匹、わさび、竹の子、なまずの酢の物を与えたと記録にあり、このような報奨はその後の説諭の際にも続きました。信徒たちは飢えさせておいて、僧侶は鯛の刺身で酒を飲んでいたなんて、何を言っていいのか呆れるばかりですね。



専称寺

専称寺

専称寺

発願寺


発願寺には光蔵という15歳の少年が一人で預けられていました。基本的に10代半ば以上の者は一人で預けられたというのは、富山藩と同じ方式。

寺の僧から打ったり叩いたりされて、時には光蔵も抵抗して取っ組み合いのけんかとなったのだとか。

「改心(棄教)する」と一言言えば楽になるのに、その一言を言わないために一人で頑張っていたのは偉いと思いますよ。境内のどこにいたんでしょう。



発願寺

発願寺

勝林寺


勝林寺には山田貞四郎という16歳の少年が一人で預けられ、寺の庭掃除などの雑用をさせられていました。

捕囚であり、雑役夫でもあったんですね。信徒たちは。

流配者には藩から一日に米四合、薪代と菜代がそれぞれ一銭五厘、衣服代若干が支給されていましたが、僧侶たちがすべて着服して、 貞四郎には粗末で不味い物しか与えなかったといいます。

役人や預け寺の僧侶が上前をはねて、というのはどこでもそうだったことでしょう。大聖寺藩だけでなく、他でもやっていたから信徒があれほどたくさん死んだのです。勝林寺は説諭も担当していますね。報奨分ももらっていたはずです。



勝林寺

勝林寺

勝光寺


名前が似てますが、こちらは勝光寺。勝光寺はかなりの大寺です。説諭も担当し、信徒も預かりました。

ソヨという26歳の女性と、その子供の文太郎と辰三郎。ソヨは梁に吊られて叩かれ、改心(棄教)しました。息子たちも改心し、その改心証文が残っています。

今見ると、その改心証文によって、かえって無理矢理な棄教であったことを証明しているように思えます。梁に吊られて叩かれなければ棄教させられないくらい、堅固な信仰を持っていたということですから。預かった3人全員を見事棄教させたのだから、やはり報奨を受けたことでしょう。自分たちが何をやっているのか分かっていたんでしょうかね。



勝光寺

勝光寺

勝光寺

篠生寺


篠生寺(じょうしょうじ)だけは、ちょっと様子が違います。ここに預けられた信徒だけは、大切に扱われました。篠生寺のイシは、住職夫妻がとても可愛がったそうです。

食事も家族と一緒に、同じ膳だったというだけで奇跡のようですが、説諭も数時間に及ぶと住職の妻が「そろそろいいんじゃないですか」と引き取っていくほどだったとか。イシも寺でまめまめしく働きました。

どこの寺でもそうだったら良かったのに。そこまででなくても、爪の垢を煎じて飲む程度でもしてくれていたら、良心的な交流が残されたと思うんですけどね、この地の歴史として。

金沢藩では寺に預けて説諭をさせるということはなかったし、他の地域では寺に預けたことはあっても、これほどの対立関係を生まなかったように思います。北陸が真宗王国だったからこそ、富山藩と大聖寺藩ではこのようになったのだなと、考えさせられるものがあります。

その地域特有の歴史があり、それが育んだ特性があります。その上にキリスト教が入ってきた、その頃には流配という形でコンタクトが発生したのですが、正面衝突以外の知恵はなかったものかと。「だから宗教は難しい」とか言わないで、知恵を絞っていかなければならないと思います。あ、これは今の時代の話ですけどね。



篠生寺

篠生寺


 福井へ行きます!


車窓


午後は福井に移動しようと車を走らせていると、車窓に金色の大観音が。さっきから気になってたんですが・・・、巨大ですね (;''∀'')

市内どこからでも見えるからランドマークと言うんですかね。加賀の大観音。

「あれホント恥ずかしいんですよー」と、加賀市民が言ってます。加賀市長、若者の声を聞いてあげてください。



やっぱり8番ラーメンで


ロードサイドの8番ラーメンでランチタイム。8の字のナルトにテンション上がるようになった私は、北陸に染まり始めてる?

石川県加賀市の国道8号線沿いで創業されたから、8番ラーメンだそうです。ああ、どう役立てていいか分からない豆知識!


一路福井へ


では一路福井へ。良い天気です。福井県は史跡めぐりで来るのが初めてなので楽しみですね。

特に殉教地!(結局それかっ)
一応全国の主だった殉教地くらいは行ってお祈りしようというのが私の目標なので、外せないんですよね、福井も。

何年か前からYちゃんとは「いつか行きたいの」と話していたんですが、やっと今日実現することになりました。是非とも叶えたいことは口に出して、誰かに伝えながら求めていくべきなんでしょうね。チャンスをもらえるように♪



福井市内


市内に入って、車を停め、Yちゃんのパパと合流。案内しようと来てくれました。有り難いことです。

やっぱり県庁所在地って、静かではないですね。福井大の女の子とは北ノ庄城址で待ち合わせ。北ノ庄城址!行きたかったんだよね~(*‘∀‘)


北ノ庄城址


こちらが北ノ庄城址。櫓はおろか堀も石垣もなく、柴田勝家像の辺りだけが城チックに整えられています。

史跡公園ですね。賤ヶ岳で敗れた勝家は、夫人と共に自刃し、城は焼け落ちたのですから、跡がないのも仕方ないですかね。



北ノ庄城址

北ノ庄城址

解説板

解説板

浅井三姉妹とお市の方


敷地内に、柴田勝家に嫁いだお市の方と、その連れ子 浅井三姉妹の像が建てられています。

お市の方はご存知の通り、信長の妹で美女。娘たちも美しかったようです。この中で次女の初だけがキリシタンですね。嫁ぎ先の京極家に京極マリアというお姑さんがいて、その人の勧めで伝道されました。

ちなみに京極マリアの兄が浅井長政で、お市の方が最初に嫁いだ夫です。だからマリアにとって初は姪で嫁だった訳で、可愛かったことでしょう。浅井長政も信長に攻められて死んでますから、不憫でもあったと思いますし。戦国時代って、、運命無茶苦茶ですね。自分で自分の人生選べないし。


ちなみに3連発


ちなみにちなみに、高山右近の父、ダリオ高山図書が預けられていたのが北ノ庄でした。城内のどこかに囚われていたはずです。どこだったんだろー? 自由が多少与えられるようになってからは宣教師を招いて、巡回してもらっています。その際洗礼志願者には洗礼を施してもらい。宣教師が来たときは、城下で迎えただろうと思われますが、いずれにしてもアツいですわ。シニアパワー炸裂してます。

ちなみに×3、ダリオ高山のアツさゆえ、イエズス会宣教師のルイス・フロイスが1581(天正9)年5月と翌年の9月に北ノ庄を訪問することになり、この城について述べています。「城及び他の屋敷の屋根が全てことごとく立派な石で葺かれており、その色により一層城の美観を増した」と。

ちなみに×4、福井市からは隠れキリシタンの遺物が多数発見されています。代々藩医を務めた奥田家に伝わってきたもので、大正時代になり土蔵の壁に竹の筒に収められて塗りこめられていたのが見つかったのです。代表的なのは、「悲しみのマリア像」と呼ばれる油彩画。他にも銅版画「教会祝日暦」や「キリスト図聖牌」、豪華な刺しゅう入り聖遺物入れなどが発見されています。

大阪の南蛮美術博物館に収められていて、先日見てきたばかりなのですが、その美しさと言ったら。その家がどこにあったのか・・・。家屋敷はもうないとしても、跡だけでも探して見たいんですけども。

もっとしっかり下調べして来るべきでしたね。もう少し分かったら、自分にも同行者の皆にも良かったろうに。一応調べられるところまではまとめてみたつもりでしたが、やればもっとできたかなと。「あともう少し」やってみることが、私の課題なんだな。反省しております。。




解説板

お市の方

遺構

遺構の解説板

福井県庁


では少し歩いて福井県庁へ。ここが福井城址です。

庁舎の前に城を築いた結城秀康の像が建てられています。めっちゃ眉間にしわ寄せて、気難しそうな感じですが・・・。

家康の次男なのに冷遇されて、3歳まで面会を許されることもなかったと伝えられていますね。ただしキリシタン大名の黒田官兵衛とは仲が良く、伏見では三日に一日は官兵衛の屋敷で過ごしたという記録が残るほど。

跡を継いで第二代福井(越前)藩主となった松平忠直にはキリシタンだったという噂があります。忠直にはお江の三女勝姫が嫁いだのですが、夫婦仲は良くなったとか。というか、勝姫は自分の祖母が城と共に死んだ北ノ庄城の近くでどんな精神状態で暮らしていたんでしょう。



結城秀康の像

結城秀康解説碑

福井城址

解説板

お濠


こちらの城は天守台が残されていて、お濠も健在。真っ緑ですごいですけど(アオコの大発生?)

キリシタンの殉教事件があったのは、第五代藩主、松平昌親の時代ですね。この濠、見てたのかな。

福井県丹生郡誌・河野村誌を読むと、賀浦十兵衛、八兵衛はキリシタンであるので、福井藩で万事よろしくとのことが、松平昌勝(松岡藩主。実は昌親の兄)が福井藩主の松平昌親に宛てた書状に記載されています。彼らが江戸送りになったのまでは記録がありますが、その後許されて帰ったとは書かれていないので、恐らく江戸で死亡したのだろうと考えられています。


「太郎右衛門島」の伝説


また元禄の頃、本南條郡河野村糠浦の百姓組頭の太郎右衛門がキリシタンの疑いで訴えられ、その後江戸送りになって火刑に処されたとも。同郷の者が哀れんで遺骨や灰をもらい受けて帰り、糠浦のはずれに流れる川の三角州のような小島に葬ったということです。太郎右衛門は江戸送りになる前に「この地に変動あらば我が魂ここにとどまると思え」と言ったとかで、それから風の強い夜中にはこの辺がゴーッと異様な音がするので「太郎右衛門島」と人々が呼ぶようになりました。――と、後半部分は伝説っぽくなってますね (^-^;

ん?ということは、永平寺町松岡にあった越前松岡藩の藩庁を攻めなければならなかったのか? うかつにも太郎右衛門島さえ行けばいいと考えていました。太郎右衛門も江戸で処刑されているなら、どこで火刑に? 火焙りなんて江戸の藩邸でする訳ないし、切支丹屋敷も火刑はないから、斬首か牢死の間違いかなぁ。

まあ今回は福井の殉教関連史跡に行けるというだけで感謝か。いや、感謝ではあるけど満足とは言えないなぁ。。(再訪させてください、神さま☆



福井城址

案内地図

お濠


 福井唯一の殉教関連の史跡地へ


海辺をドライブ


海辺をドライブしながら南越前方面へ。景色最高です♪

太郎右衛門島は南条郡にあるので、山を通るルートでも行けるのですが、眺めのいいコースを案内してくれたようです。

郷里の人が太郎右衛門の遺灰をもらって来て埋めたというなら、その辺りにキリシタンの集落かグループがあったと考えてもいいかと思いますね。可能性として。

また太郎右衛の家族や親戚などもいたろうし、昔は個人で信仰を持つのではなく、家族単位で宗教に入ることがほとんどだったので、太郎右衛門が死亡したとしてもその類族は残ったはず。同じ海を見ていたんでしょうね。不思議です。伝説がにわかに現実のこととして感じられてきて。




糠に到着。昔は川の三角州だった太郎右衛門島ですが、ダムができて護岸工事がなされ、川の水量も増したため、今は消失しています。

川の流れる場所も多少変わっているから、当時の面影は皆無かなと。あまり期待はできないけど、車を下りて見てみましょうか。


糠川のダム


こちらが糠川のダム。地域住民が幾度となく出水の被害に悩まされていたため、道路改良工事と河川トンネル造成をして、安全を確保するようになったとのこと。

必要な防災インフラだったんですね。解説板を読むと、護岸工事が施された際に三角洲は宅地となったもよう(たぶん)。川底になったか、宅地になったか微妙なラインではありますけど。いずれにせよ、どこを「太郎右衛門島跡」と言っていいのか分からない状態です。



工事の解説板

糠川

戦死者の慰霊碑

糠川ダム

住宅地


宅地は糠川の湾曲に沿って、数メートルの高さで造成されています。
太郎右衛門島やーい!という感じですね。

折しも日が傾きかけてきて、ダムを通る水音がゴーッと低音で鳴り続けているのが、異世界に足を踏み入れたような気分に。

どこであるか場所の特定はできなかったけれど、太郎右衛門島の体験はできたのかもしれません。





帰りも半分は海ルート。漁火にはまだ早いけれど、柔らかくピンクオレンジを帯びた光が、心にまで射しこんでくるようです。

天地や万物は神さまを証するために創られたと聞いたことがありますが、なんと素晴らしく証していることでしょうね。

神さまの包み込むような優しさと温もり、全てを露わにする光の強さと謹厳さ。それらが調和する世界の確かさなど、感じさせてもらうことの多いこと。人間は・・・、人間も被造物ですが、これほどまでに神さまを証できてますかね。



美しい夕映え


あまりに素敵なので思わず下り立って、美しい夕映えの中で写真撮影。光のプリズムとキラキラした皆の笑顔・・・。ここは天国かよ (*´▽`*)!!
ちょっと泣きたいくらいの歓喜が体中を駆けめぐりました。肉体は地上に足をつけて立っていても、天国を垣間見る瞬間があるようで。永遠が決して遠いものではないと教えてもらったひと時でした。



加賀梨ゼリー


福井市内に戻ってそこで合流した人たちと夕食を共にし、様々な対話を。終わって店の外に出ると、バケツをひっくり返したような雨でした。外で何か音がするなーと思っていたら・・・(@ ̄□ ̄@;)

日中ずっと降らないように、雨を留めてもらっていたように感じました。そういえば新潟に向かうときから台風予想で、ずっと天気悪いはずだったのに、降られた記憶がとんとなく。守られていたことも、こういうことがないと気付かない鈍感な人間たちよ(それ私ね!)、福井を去る前にちゃんとお祈りしていくんだよ(それも私ね☆)





         キリシタン史の現在


キリシタン史研究の大家、高瀬弘一郎氏は「キリシタン史を神の摂理の顕現と見る歴史観は、歴史を動かす要因として、超自然的な力を考えるもので、他の学説とは共存はできても融合は出来ないように思う」と述べています。

これは宗教史であるキリシタン史に関わるならば、避けて通れない命題。最近の若手の学者さんはキリシタン史を民衆史や経済史として捉える人もいて、新しいウェーブを起こしているのですが、私には信仰的な観点を排除することが難しくて、それが壁のように思えるときがあります。

しかし教会離れやキリスト教のイベント化進んでいる今、逆に信仰的であることが新鮮である場合もあるかもしれません。幸い(?)学者ではないので、自分のキリシタン史を掘り起こしていけばいいですかね。七夕の短冊には、キリシタン史の新しい地平線を拓きたいと、大仰なことを書きました。心の中でですけども (^▽^)
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