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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 北国の使徒たち 7




本日は能登半島へ。キリシタンと聞けばどこにでも行くって、サイレン聞いたら鳴いちゃう犬のようですが、高山右近の墓かもしれない石とかは見てみたくてしょうがないのです。二回目の七尾も楽しみだな (o^^o)ワオーン♪




金沢医科大学病院


宿を取った内灘町に、昔からの知り合いがいることを知り、ダメもとで連絡してみたら、あさイチで会えることに。朝マックしながら対話のひと時を。

私がキリシタン史跡をめぐっていると言うと、「石川でキリスト教関係というと、『モーゼの墓』くらいですかね」と。えっ?

時間があったら行ってみようかと、頭の中にメモしましたが、何かザワつく響きですね、『モーゼの墓』って。旧約聖書に出てくるモーセが能登半島で死んでるなんてあり得る?(いや、ナイナイ)。内灘にある金沢医科大学周辺は高級マンションがいっぱいでした。こういう町なんですね。



志賀町へ


内灘駅で、キリシタンのことを卒論に書こうとしている金沢大生を待ち合わせして、今日は三人旅☆

ではまず羽咋郡の志賀町へ向かいましょうか。高山右近の知行地だった所を含む一帯で、現在の高山家当主も住んでいます。

好天の下、海を眺めながら一路北へ。サイクリングしている人たちが爽やか。


高山右近の碑


詳しい地図や住所が分からなかったので、見つかるかなーと思っていたのですが、案内標柱を発見。幸先良いわー。ここから山の中に入って行くと高山右近の碑があるようです。

ん、「碑」?「墓」じゃないくて?
疑問を抱きながら山中へ続く小道へ。沢ガニとかトカゲに遭遇しながら、童心に戻って登って行きます。



小道の入口

沢ガニの巣

案内が頻繫に出ている

この先にあるっぽい

「高山右近墓所」


やった!こちらが件の石ですね。石の前の十字架型石碑には「高山右近墓所」と刻まれていますね。

むむむ・・・。高山右近と共にマニラに追放された孫の一人が、日本に戻り、右近の指の骨を埋めて作った物だと聞き、それで墓だと思い込んでいたのですが、もうちょっとしっかり調べた方が良さそう。


「碑」か「墓」か?


私が信頼する本、木越邦子著「キリシタンの記憶」によると、長くカトリック金沢教会で務めたカステラン神父がこちらの墓を発掘調査したら「小指の骨と馬の像一個」が出てきたというけれど、発掘に立ち会った人物がそんな物は見たことがないと爆弾発言したのだとか。

また発掘品は金沢教会に送られたとカステラン神父の著書に書かれているのですが、その教会に25年間勤務した木越さん自身、そんな物を見たことがなく、収蔵品にもないということです。カステラン神父はキリシタンを愛する余り、多少無理をしてしまうところがあったようで、騙されてキリシタン遺物を掴まされることもあったもよう。著書の一部も盗作だったことが明らかにされています。

木越さんが実際に高山家の菩提寺を訪ねて発掘調査の様子を訊いたところ、カステラン神父らが調査をしたのはこちらではなく、もっと最近の時代の高山家の墓だと答えが返ってきたそうです。

つまり・・・、高山右近の墓かどうか、大いに疑わしいということですね。「高山右近墓所」と思いっきり書いてありますが。それで案内標識の方には「高山右近の碑」としたのでしょう。

この二通りの標示、バランスを取ったつもりかもしれませんが、何とかしなきゃいけませんよね。見たところ解説板がないようなので、そこに「高山右近の墓かもしれないし、違うかもしれない」と書くのが良いのではないかと。いつかはっきりとしたことが分かったら、その時点でそれを反映すればいいので。歴史学に信仰心が絡まると、こういうこと結構ありますけど、うまく対処したいものですよね (*‘ω‘ *)



高山右近の碑

「高山右近墓所」


背面から

高山右近記念公園


高山右近の碑から道を少し進んだ所には、高山右近記念公園が。

高槻城や高岡城で見たのと同じブロンズ像が建てられています。

像は高山家の16代当主、高山豊次氏が寄贈したもので、こういうものを建てるのにどのくらいかかるのか知らないけれど、立派な像です。右近の列福式にも招待客として参加してらっしゃいましたね。右近の子孫の方がクリスチャンでないというのはいささか残念なことではありますけど(列福式に参加したときの旅行記は⇒大阪の隠れキリシタンⅣ)。



高山右近記念公園

右近像

事績を記した碑

前田家当主による植樹


一緒に回っているKちゃんが花を摘み始めたのを見て、私も手伝って2人で献花を。野の花ですけど、こういうのの方が右近は喜ぶかもしれません (o^―^o)

ちなみに横のお賽銭は私たちではありません。日本人ぽいな。。


敷地に野の花

アジサイ

末吉

志賀町二所宮


続いて田園地帯を走って二所宮へ。高山右近の死後、妻娘孫の三人が日本に戻って暮らしたという話がある地域です。

ジュリア夫人と娘のルチア、孫の一人・・・この孫が指の骨を持って来たかもしれない人ですね。

日本に戻ったということは、表面的にであるにしても棄教したということで、すると類族として宗門改帳などに記録が残るはず。檀那寺も持たなければならないから、その過去帳にも載らないことはあり得ないですね。どこかに記録があるはずなんだけどな、もし戻って来ていたら。


志賀町の俗謡


「志賀町史」には地域に伝わるこんな俗謡が紹介されています。「釈迦の涅槃に遊ばぬうちは、町屋の兵衛か、黒氏の右近か、森の中屋のこれ三軒(二所宮)」。森とは志賀町二所宮の古名で、中屋は横山家のことだそうですが、「釈迦の涅槃に遊ばぬ」キリシタンの類族が二所宮にいたことを示唆しています。

また1604(慶長9)年に高山右近が知行地の志賀町大坂村へ来たとき、右近に仕えた百姓が二所宮に組み入れられた記録があります(「二所宮政氏藤平家文書」)。だからジュリア夫人らがいたという確たる証拠はないけれど、もし彼らが来たんだとしたら受け入れてくれる家はいくつかあっただろうと考えられます。

アウェーではなく、この辺りはホームだったんですね。キリシタンにとっては。田畑が広がるオープンな土地ですが、どこか隠れ里っぽい雰囲気が漂っているのはそのせいなのかな。感性では何かを感じ取っているんですが、言葉にできません。不思議な土地ですね☆彡



二所宮

二所宮

二所宮

大蓮寺


では次は同じ羽咋郡でも宝達志水町の方へ。こちらの大蓮寺に内藤如庵の子孫のお墓があるということで。

内藤如庵は高山右近ほどではないですけど、有名なキリシタン武将で、八木城主でもありました。秀吉の文禄・慶長の役のときには和平交渉のために北京まで行った重要人物です。


右近と如庵


右近一家がマニラに追放されて行く際に、内藤如庵一家も一緒に追放されて行ったのです。しかし右近のように40日で死去することはなく、如庵は10~12年ほど生きて向こうで亡くなりました。その後子孫が日本に戻ってきたというところまで、右近と重なっています。

しかし如庵の子孫の方は記録が比較的はっきりと残っています。それで子孫の墓まで分かるんですね。「キリシタンの大檀那」として名を馳せた右近ほどではなかったお陰で、加賀藩での子孫の扱いもそれほど神経を尖らたものではなかったのかもしれません。

大蓮寺は以前は道を挟んだ山の麓辺りにあったのですが、地滑りでこちらに移転したとのこと。お墓もそちらにあったのですが、墓碑は移されて今の境内の中にあります。だから遺骸が眠っているのは恐らくあちらの方ですね。



大蓮寺

解説文

以前大蓮寺があった所

内藤一族の墓


見つかるか心配していましたが、ありました!

墓域はそれほど広くはなく、コンクリートで下を固められた古い墓碑は多くないので。

こちらですね。墓碑が4基。おにぎり型の墓碑には「妙法是心院妙具日〇大姉」とあります(〇は読めず)。ほう、女性ですか。

「志雄町史」には、「おそらく、1645年(正保二)のことと思われるが、藩の役人につれられた内藤采女と、その家族たちが萩谷村へやってきた」とあり、如庵の死後、息子の采女とその家族何人かが当地に役人と一緒にやって来て、いわば村預けという形で暮らすようになったことがうかがえます。

転びキリシタンとして、内藤采女は江戸で取り調べを受けて再び加賀に戻り、妻の実家に寄寓したのだという記述が続きます。つまり藩の監視の下、子孫はこちらの村で暮らし、死して葬られたということですね。檀那寺であった大蓮寺の過去帳にも記されているので、かなり正確に動きは把握できます。

この墓碑の持ち主たちが、内藤如庵から数えて何代目だったかは、私には分からないけれど、お寺では分かっているんでしょうね。本家は1864年に子孫が絶え、断絶したと加賀藩では幕府に報告しています。他の家は残ってるみたいですが。何か・・・キリシタン類族って哀しいですね。特に内藤家は。



内藤一族の墓

内藤一族の墓

内藤一族の墓

背面から

菅原神社


カステラン神父著「石川のキリシタン」では、こちらの菅原神社に内藤采女は住んでいたのではないかということで来てみました。

宮司の娘と結婚して、81歳までここで暮らしたというんですが、来てみたからといって分かるはずもなく、「うーん」と唸るしかありません (;´・ω・)

つまらない想像で言うならですけど、宮司の娘と結婚して神社に暮らすって、転んだとしても元キリシタンがやりますかね?神社に寄寓したらそれなりに儀式などに参加しなければならないだろうし、信仰という面でもぶつかるところが多いと思うんですけど。

どうなんだろうなぁ。例えば前半生をバリバリのキリシタンとしてマニラで暮らして、後半生を日本で神社の氏子かそれ以上のレベルで暮らすって、人生の中で両立するものかどうか。史料の精査が必要でしょうね。



菅原神社

菅原神社

菅原神社


 伝説の森モーゼパークだとお!?


伝説の森モーゼパーク・・・!


キリシタンを追って宝達志水町まで来てみたら、何と!朝話していたモーゼの墓とやらが、この村にあるんだとか!

これも神さまが私たちに見て確認してきなさいとおっしゃっているのかもしれないと思い、ちょっと寄ることに。少し時間は余裕がありそうですし。

ふむ、モーゼの墓は「伝説の森モーゼパーク」となっているみたいですね。観光誘致のために史実を無視した公園整備がされることは青森のキリストの墓と同じような展開だなと、ちょっとデジャヴを感じつつ、車を停めて中へ。ちなみに駐車場は2か所あり、大型バス用駐車場が別の場所に用意されていて自信過剰振りをうかがわせます。

大きな敷地案内には、「モーゼは天浮舟で能登に来た」という「設定」からか、モーセが宇宙人のように描かれていて、ディスり方が半端ないです。たぶんキリスト教主義の学校とかが来たら、怒って帰っちゃうでしょうね。いや一般の公立校でも来させない方が賢明かと。歴史の教科書完全に無視してますから、子供の教育に悪いです。

エントランスから少し上がるとギリシャの神託所(?)風のオブジェがあって、そのチープな佇まいがガッカリ過ぎる仕様となっています。思っていたのより大規模な施設ですが、無人。観光誘致として完全にコケているのに、それを認めずに残してるところが、地方行政のあるあるだなと。。



モーゼパーク

敷地案内

モーゼ!

ギリシャ風?

モーゼの伝説


宝達志水町の公式サイトにはこのように書かれています。

⇒「モーゼ伝説がここにあります。神より十戒を授かったモーゼが、宝達山の山麓、三ツ子塚古墳群の中に葬られているという奇想天外なミステリー。モーゼは40年の歳月をかけ、ユダヤの民衆をイスラエルの地へ導いた後、シナイ山に登った。そこからモーゼは天浮船に乗り、能登宝達山に辿り着いたという。その後、583歳までの超人的な余生を宝達山で過ごし、三ッ子塚に埋葬された。モーゼパークは、そんな聖者モーゼが眠る伝説の森。ロマンの小路をぬけ、モーゼの墓を見渡すミステリーヤードにたたずめば、幾千年からの時空を超えた世界が見えてくるかもしれない。」

聖書を一度でも読んだら、絶対にこれに惑わされることはないでしょうけどね。町の公式サイトにこんな文章載せてしまうって、町民は恥ずかしいと思わないんでしょうか。聖書を読まなくても、世界史や日本史や、普通の学校教育を受けていたらこれを「そうかもな」と思うはずないんですけども。宝達志水町では小学生に「モーセがここに来たよ、天浮船で」と教えてるんですかね?

これをシャレとして受け止めて観光に来てよってことかもしれませんが、内容が内容ですよ。キリスト教徒が唯一の聖典とする聖書を用いてやってしまっては、シャレにはならない話です。信仰が関わってくることなのに「奇想天外なミステリー」と書けば免責されるとでも思ってるんでしょうか。

これをコーランやムハンマドでやったらどうなるか、考えたことないんでしょうけど、そういう想像力の欠如が国際的な問題を引き起こすことがままあります。天浮船が着陸したとされる丘は展望台になっているようですが、道が崩れて立入禁止になっています。全体的に人手不足で荒れた感じも。これ、早く手仕舞えという、天からのサジェスチョンではないですかね。



解説板

立入禁止

天浮船

三ツ子塚古墳群

モーゼ大聖主之霊位


「ひど過ぎる・・・」

私も多少のことなら笑い飛ばして帰ろうかと思っていたのですが、この標柱を見て全面的に反対することにしました。

「モーゼ大聖主之霊位」って、もはや何教かも分からないし、怪しげな様々な物が置かれたみすぼらしい様子からしても到底笑って帰れません。ミステリースポットどころか珍スポだし、私のようなクリスチャンからしたら自分がバカにされているような気分になる、怒スポ(どすぽ。今作りました)です。

大体ここは元々「三ツ子塚古墳群」というちゃんとした遺跡なのです。標柱の後ろにある三つの小山がそれなんですが、それを「モーゼの墓」ってことにしてしまって、地元民は心痛くないんですかね?この地を治めた先祖だろうに。もしかしたら地元民の誇りも奪っているかもしれませんよ。恥ずかしい施設というだけでなく、地域の歴史を簒奪している訳ですから。



モーゼの墓

モーゼ大聖主之霊位

絵・・・

モーゼの墓記帳所


下っていくと、モーゼクラブが設けたモーゼの墓記帳所が。ほとばしるホームメイド感に眩暈がします。

押水町(宝達志水町の前身)商工会によって結成された、このモーゼクラブとやらが、モーゼの墓を推進した張本人。この人たちが乗っかったのが、山根キクが書いた「光りは東方より」。

山根キクは、竹内文書の影響を受け、次々と聖書の中の人物や釈迦や孔子まで引き合いに出し、彼らが日本に来たと主張した人物。青森のキリストの墓にも一枚噛んでいます。言ってることからしておかしいのに、そんな人の著書を利用して観光資源に使おうだなんて、浅はかなことを考えたものです。

中の解説板には、「このモーゼの墓は『三ツ子塚古墳』と呼ばれており」と書かれていますけども・・・それ逆だから(~_~メ)  古墳を勝手にモーゼの墓と言い出したんですよ。地元には昔からモーゼのモの字もなかったのに、昭和になって急にモーゼの墓が「発見」されるなんておかしいですからっ!

ああもう、反論するのもアホらしくなってきたので、これでこの話を終わりにしようと思います。モーゼの墓、日本にないですから!



モーゼの墓記帳所

解説板

解説板

伝説の森モーゼパーク


 気を取り直して七尾へ★


あ・・・!


モーゼパークですっかりイグゾーストされて、しばし放心状態でいると、車窓に教会っぽい建物が見えてきました。

聖句が書いてあるなと、ぼんやり眺めていたら、同じものを見ていたKちゃんが「これヨハネ3章16節ですね」と。おー、確かに!!!

「神は実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」――。

この聖句が好きで、我が家の車のナンバーは「・316」にしたほど。それなのにうっかりしていました。というか、Kちゃんすごい!今日は何という良い子と一緒に回らせてもらっているんでしょう。金沢大レベル高い! 何より神さまが旅程を祝福して励ましてくれているように思えて、力が湧いてきました (^▽^)/



キリスト教の集会所

聖句

七尾に向かって

カトリック七尾教会


七尾に着いてとりあえず教会へ。カトリック七尾教会です。入ってお祈りできるかと思いましたが、幼稚園併設のところは無理なことが多いですね。防犯上の理由でしょうけど。

子供たちの元気な声が聞けたからいいか♪


カトリック七尾教会

カトリック七尾教会

日本基督教団 七尾教会


プロテスタントもと思い、日本基督教団七尾教会へ。北陸地震で耐震補強が必要となり、建て替えられた教会堂は、真っ白でぴかぴか。

結婚式場のようでもありますね。世の中の式場の方のイメージが先行してしまって、そう感じるのかもしれませんが。


七尾教会

七尾教会

小丸山城址公園


次は小丸山城址へ。あるカトリック系サイトが、こちらを「右近の建てた教会跡」としていたものですから。

能登に2ヶ所あった教会の一つがここだというのかなーと思い。

駐車場脇には大河ドラマを機に作られたと思しき「利家とまつ」像。やっぱり日本は大河ドラマで地域振興が王道みたいです。ドラマが終わっても人が来続けてくれるような仕組みが、次の一手として打てたらいいんでしょうね。



小丸山城址公園

利家とまつ

解説碑

大念寺

本丸跡


「小丸山」の名称がピッタリだなと思いながら、坂を登って本丸跡へ。公園になっていますが、土塁や堀切がそのままで、城マニアにはウケが良さそう。

残しておいてくれた方がいいというものがありますよね。安全性や利便性を確保する必要はあるとしても。

さてここが「右近の建てた教会跡」とまで言えるかというと、いささか疑問。まずこちらは城跡なので、教会跡ではないですね。右近が建てた教会が「この地にあった」ではなく、「この地域にあった」が正しいと思います。表現の問題かもしれませんが、誤解を招くよりは訂正してもらった方が有り難いなと思います。

あくまで私見ですけど、右近の建てた教会は、七尾と志雄にあったんではないですかね。それで七尾の方は本行寺の裏だったのではないかと。志雄の方は今日訪れた辺りのどこか・・・。小丸山城址は前田家が金沢に入るまでの足跡として興味深いです。後に加賀前田家百万石とまでなる出発点のような気がして☆



小丸山城址

絵図

前田家

解説板


 ジーパン和尚に会いに行こう!


本行寺山門


「まだ時間あるから本行寺行こうか?」と言うと、嬉しそうな笑みを浮かべるKちゃん。では是非行きましょー! ジーパン和尚に会えるかな。

下の道は工事中なんだと思いながら上がって行くと、山門は開いているけどお留守みたい。「遠方からお越しの拝観希望者は電話ください」と、携帯の番号が書いてあります。

遠方だからいいかなと思い、夫に電話をかけてもらうと、「今下で工事してるけど、少し待ってて。遠くから来たなら行ってあげる」との返事が。そっか、さっきの工事現場にいたんですね。ジーパン、優しいっ。山門の内側にラミネート加工されて掲示されている資料を読みながら待つこと5分。おっ、ご本人登場!



山門の資料

山門の資料

山門の資料

山門の資料

本行寺


間もなくして境内に現れた和尚は、トレードマークのジーパンではなく作業着。どこから来たの?などの会話に続いて、「あんた、この前大阪行った?」。

何の話か分からないまま、「はい」と答えたら、「わしも行っとった。招待されて。記念品もあるで」と。ああ、列福式ね!

招待されて行ったなんて羨ましい。なるほど高山右近ゆかりの地、とりわけ七尾の代表として招かれたんですね。

Kちゃんが大学生で卒論でキリシタンのことを書こうとしていると話すと、和尚は「わしは若い人応援しとるんだわ。それはちゃんと説明してあげなかんな。ちょっと待っとって、着替えてくるから。下の修道所跡とか見とって」と庫裏に消えました。

やった、直々に話を聞けるなんて!前回は予約してから来たのですが、急な葬儀が入ったとかで和尚には会えなかったのです。今回はいきなり来たのに案内までしてもらえるだなんて、なんと幸運な。若い人と来たのも和尚の心を動かすポイントだったようで、三人旅の御心を感じます♪



右近像


境内

右近公園


墓域や修道所跡は普段勝手に入ってはいけないエリアですが、和尚の許可があるのでゴー。右近公園と名付けられています。

ここに右近が実際にいただなんて・・・。右近の存在が偉大になり過ぎて、かえって信じにくい気がしてしまいます。

ここで教えを伝えたりもしていたというので、やはりここが七尾の教会跡ではないですかね。今はこれくらいの広さしかありませんが、当時はもっと広くて、小学校の辺りまでが敷地だったそう。それなら更に納得です。

ここは寺町の真ん中ですが、寺が防御線になった内側に、修道所もしくは教会があったというのは秘密保持の観点からも◎。一応禁教令下ですからね、道に面した所や、山の上だったりしたら目立つから、そういう所は避けたと思うのです。小丸山城と寺町との間の谷状の所にあったというのが、最も合理的だと思います。


右近と柿


右近が去っていくとき、通って行ったとされる石段には「右近嘆きの階段」と書かれています。そこを通って行ったことよりも、最後に本行寺の和尚(ジーパンではなく当時の。当然か)とのやり取りが私には印象的に思い出されます。和尚が右近の好物である柿5つを差し出すと、右近は1つを和尚に返して4つを持って立ち去ったのだとか。

その意味云々は、いろんな解釈があり得るでしょうけど、そこに確かに右近がいたんだなという感じが伝わってきます。リアリティを感じます。わざわざ語るほどでもない些細なエピソードだからこそ、本当にそうしたんだなと思えますし。何か、面影が浮かんでくるような (*^-^*)



右近修道所跡

右近井戸

石造物

右近嘆きの階段

ジーパン和尚による解説


「シャワー浴びてきた」と、お茶目な笑顔を見せた作務衣の和尚(もうジーパンは卒業したのか?)。ここから怒涛の説明&案内をしてくれました。

こちらは本行寺の由来が書かれた解説碑。多少身びいきかなーと思えますが、とにかくこちらが特別なお寺であることは理解しました。

和尚は新聞雑誌やテレビの取材を度々受けているので、話すのは立て板に水ですね。疑義をただす間もない感じで進んでいきます。ええ、これでいいんだと思います。説明を聞かせてもらっているのですから。



本行寺由来碑


眠り猫

ゼウスの塔


本堂裏の墓域に移って、ゼウスの塔へ。キリシタンだったとされる海津夫人の戒名「全寿院」が「ゼウス」に転訛し、その宝筐印塔(ほうきょういんとう)が「ゼウスの塔」になったようです。

これって和尚オリジナルの説なんじゃないかなと思いましたが、ま、聞き進みましょう。

塔の後ろに回った和尚は、おもむろに椿の枝を取り出して、塔の中ぐらいに空いている穴に差し込んで、「これをこうやって、中に入れると、中に入っている石にぶつかるんや。その石に十字が刻まれていて、信者は枝で触れながら祈っとんだんだわな。海外から見に来た人も感動したと言っとったよ」と。な、なるほど。・・・なるほど?

実際にさせてもらいましたが、私の感受性では感動までは享受できませんでした。でも中に入っていた石には十字架が刻まれていたとのこと。調査したんでしょうね。それを見てみたいなと思いました。



十字

後ろの穴

ハート型の石

椿の枝

氏郷が右近に贈った短刀


「あ、これ新聞で読んだ!」と思わず声を上げてしまったのが、蒲生氏郷から右近へと贈られた短刀。本堂の脇に厳重に保管されています。

どう考えても博物館行きの代物ですね。他にもそういうの多々ありますけど、特にこれは。わー、こんなに間近に見られるとは思わなかった (*‘∀‘)キラキラ

短刀は刀身が南北朝から室町時代、外装が桃山時代から江戸初期とに作られたとみられ、特徴的なのは鞘の朱色と黒色の塗り。これが会津で始まった会津塗と考えられ、会津を治めた蒲生氏郷とのつながりが明らかになったのだとか。

柄には黄金の箱を背負う牛を題材にした飾り金具が付けられていますが、これも会津張子に由来するものだそう。氏郷を信仰に導いたのは右近で、氏郷の最期を看取ったのも右近。生涯に渡る友情と信仰の絆の証として、短刀を贈ったのは非常に理解できるところです。

いつ贈ったんだろうな。名護屋で右近に再会して、2人で長崎に行って信仰を取り戻した時期か、その後くらいかな。それとも氏郷が病に倒れ、死期が近いことを悟ったときか・・・。そのどちらかだと思うのですが。キリシタン史の謎は、考えるのが楽しくなる部分も持ち合わせた謎だったりします☆

ちなみに短刀の前に置かれているメダル状の記念品は、右近列福式で招待客に配られたもの。いーな、いーな。私も参加はさせてもらったから感謝ですね。



氏郷が贈った短刀

右近の短刀

十字架


和尚が懐中電灯で照らしながら見せてくれた、こちらの仏像も博物館級。

こちらの寺に滞在した前田家の姫の念持仏とされるもので、両手をスライドさせると十字架が現れる仕組みになっています。

何より作りが精巧で、彩色もキレイ。本行寺にあるキリシタン遺物は、元々良い品だったことと、よく保存されたことで価値が増していると思います。特に「元々」という点には、身分の高いキリシタンたちの存在が関係しています。そういうキリシタン集団がいたことで、キリシタン遺物の中でも逸品と言ってもいいような物が加賀藩領に残されるようになったのです。

素敵なタイムカプセルを、神さまは能登に埋めておいてくれたのだなと思います。自由に信仰を持てるようになった今、この美しいものを目にしながら、私たちは何を思えばいいのか。感謝はもちろんですが、つながりを感じることも大切ですよね。歴史が流れ、自分にリレーされているその感覚を。歴史観とでもいいましょうか。



キリシタン遺物

キリシタン遺物

キリシタン遺物

キリシタン遺物

キリシタン遺物

キリシタン遺物

キリシタン遺物

キリシタン遺物

ジーパン和尚の説法と映像


本堂の左手から菊亭へ渡って行けるのですが、その手前に映像コーナーがありました。

そう言えば私がこの寺を知ったのも「世界ふしぎ発見!」だったように、そのようなテレビ取材をたくさん受けているようです。

一つ見てみようということで、「住職が一日だけ神父に」というローカル番組の映像を。ジーパン和尚(今更ですが本名は小崎学円和尚)は、毎年5月に霊魂(アニマー)祭というものを催していて、そこで先ほどのゼウスの塔でお経を上げ、後ろに回って今度はキリシタンの祈りを唱えるのです。

その際着るのは神父風の服、首からロザリオまでかけてという念の入れよう。しかもその後南蛮料理を模した「隠れキリシタン料理」を振る舞うという・・・。結構エッジの利いた活動をしておられます。他の寺の住職がそこまでしたら叱られるかもしれませんが、実際にキリシタンがいたお寺の住職で、所蔵するキリシタン遺物は博物館級ですから許されるっていうか、誰も文句を言えないというか。

ちなみに和尚は調理師免許も持っていて、なかなかの腕前だそう。ついでに言うと現在77歳で、和尚の後はどうなるのかと思っていたら、後継ぎとなる39歳の副住職がいて、霊魂祭のアシスタントもしているのだとか。霊魂祭、継承されていきそうですね。良いかどうかは天に判断をお任せ致します。





右近の書状!


こちらも必見!右近の書状です。

菊亭の方は、様々な理由で写真撮影不可の物が多いのですが、こちらは大丈夫だと言ってもらい。

これは右近がマニラに追放される前に長崎で細川忠興に宛てて書いた書状。恐らく右近が人生で最後に書いた手紙です。だから「日本訣別の書簡」とも。


起請文か否か


手紙の宛先である細川家に伝わるものが永青文庫にあり、本行寺のものはその下書きだと従来考えられてきたのですが、「これは起請文だからこちらが本物だ」という説が出てきて、本行寺ではそれを採用しているもよう。解説が掛け軸の横に置かれています。

起請文(きしょうもん)とは、守り行うべきことを神仏にかけて相手方に誓約した文書のこと。しばしば護符の裏側に書かれました。右近の書状は木版刷りの南禅寺の御守札の裏に書かれているので、起請文であると解釈されたのでしょう。

しかし、右近が国外追放になってもキリシタンを辞めなかった信仰者だったことを勘案すると答えは違ってきます。「神仏にかけて」誓う必要がないですよね。少なくとも南禅寺の仏様に対しては。逆に、御守札のご利益を信じなかったから、手紙の下書きに裏側を使ったというのが理にかなっていると思います。


右近の思い


内容的にはどうでしょうか。本行寺に伝わる書簡の原文と現代語訳は以下のようになっています(永青文庫のものは「苦」の位置が違い、最後に宛名が入る)。

近日出舟仕候
仍此呈一軸致進上候
誠誰ニカト存候志耳
帰ラシト思ヘハ兼テ
梓弓ナキ数ニイル
名ヲソ留ル
彼ハ向戦場命墜
名ヲ天下ニ挙 是ハ
南海ニ趣 命懸天名ヲ 
流如何六十年之
苦忽散申候 此中之御礼ハ
中々申上候/\ 恐惶敬白
        南坊
 九月十日   等伯 花押


(現代語訳:近々、出航いたすことになりました。ところで、このたび一軸の掛物をさしあげます。どなたにさしあげようかと思案しましたが、やはりあなた様にこそふさわしいもの、私のほんの志ばかりでございます。
『帰らじと思えば兼ねて梓弓無き数にいる名をぞ留むる』
彼(正成)は戦場に向かい、戦死して天下に名を挙げました。私は今南海に赴き、命を天に任せて、名を流すばかりです。いかがなものでしょうか。六十年来の苦もなんのその、いまこそ、ここに別れがやって参りました。先般来の御こころ尽くしのお礼は、筆舌につくす事は出来ません。恐れながら申し上げます。九月十日 南坊等伯)


これ普通の手紙ですよね。神仏に何かを成すことを誓っているのとは違い。最後に宛名を書いたという点からも、永青文庫の方が書簡で、本行寺の方は下書きと考えた方が自然です。どちらも真筆だから本物ですし、先に書いた方が真情がより表れているというのなら、その解釈はあり得ますが、「起請文だからこちらがオリジナル」というのは頷けません。以上でQ.E.D.になりますかね・・・?



日本訣別の書簡

起請文とする解説

七尾港


ラストは七尾港。2009年に来たときには雨雲の迫る夕暮れで陰鬱な感じがしたのですが、今日来てみたら明るくて広々。

七尾のどこにあったんだろう?七尾軍艦所は。きっと港の近くだったと思うんだけど。

こに設けられていた語学所でオズボーンというお抱え外国人が働いていたのですが、彼が浦上キリシタンへの虐待を目にし、それを横浜の英字新聞に投書したことで、外国から日本政府への非難が高まり高札撤去への道筋になったことは既述の通り。

浦上キリシタンが流配されて来て上陸した七尾で、オズボーンも働いていただなんて、偶然なんでしょうか。不思議な糸がつながっているような気がします。祈りは、してもそこで消えてしまうように感じますが、それは目に見えるものを中心にしているから。神さまが覚えて、時が来たときふさわしく叶えてくださることもあるのだと――。それなら今日も祈って帰りましょうか (^_-)-☆




内灘もキレイな町


Kちゃんを金沢に送って内灘へ。内灘の夕焼けもキレイです。地盤も結構強いそうですよ。縁があっていろんな土地に来させてもらって感謝です。

神さまはこんな風にいろんな土地で生きる人たちを愛おしく見守っているんだな。




新しい想


今日は新しい想(そう)を得ました。キリシタン史はポルトガル語やラテン語ができると有利で、更に古文書が読めたら無敵なんですが、そういった意味では私は最弱。どうしょうもないなと思っていました。だけど、今との「つながり」を見つけることなら、私にもできるのではないかと。

誰かが前を行き、同じ道を後の人が行くなら、そこに「つながり」があります。前を行った人が後の人のために残したものがあるなら、きっとそれを見出すことができるだろうと思うのです。この想を解きほぐし、展開したいです。「つながり」の中から、今に生きているものを感じていけたらいいな☆









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