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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 北国の使徒たち 5



今日も今日とて富山を回ります。最初は富山市内を、続いて高岡と小矢部へ。私のアバウトな計画が裏目に出ないといいんですが (;^ω^)

付き合ってもらうのは、昨日に引き続き富山の楽しい学生たち。
人と過ごせるって、とても贅沢なことですね。一人で行くより笑うようになるし、移動の時間にも話せるし。恵みが何倍にもなる気がします。すべてを主が下さっているのだと感じながらスタート☆彡


真宗大谷派 正願寺


それではまず真宗大谷派の正願寺へ。昔、この寺の18代住職、亀谷凌雲がキリスト教に改宗してセンセーションを巻き起こしたことがあります。

そんなことが書かれているはずないだろうと思っていましたが、案の定。とても静かな、地元のお寺という感じです。

だけど北陸というのは真宗勢力が強いですね。浄土宗、浄土真宗、本願寺派、大谷派・・・。「真宗王国」とまで言われる所以です。

こういう地域でキリシタンはどんな活動をしていたのか、浦上キリシタンはどのように受け止められのか、クリスチャンになるってどういうインパクトを与えたのかを、他とは違う視点からも読み解いてみる必要がありそうです。



正願寺

正願寺

解説板

蓮華寺


つづいて蓮華寺へ。ここからは浦上キリシタン関係です。

1870年12月19日(明治3年10月27日)、富山藩庁は藩内の寺院に対し、一派一寺にせよとの通達(合寺令)を出しました。

富山藩流配の浦上キリシタンは浄土真宗の寺々に分囚されていたのですが、この合寺令のために1カ寺に集められることに。その寺が常楽寺で、多くの人でごった返したのと、信徒は厄介者だったのとで、浦上キリシタンたちは隣の蓮華寺に小屋を建てて押し込められました。ここにいたんですね。。


長崎から富山に来るまで


さて富山藩に流配されて来た浦上キリシタンは、どこをどう通って来たのかを押さえておくことにしましょう。ルートは3つですが、いずれも直接富山に送られたのではなく、一旦金沢や大聖寺(今の小松市)に送られた後、改めて富山に移送されました。

ルート1(主に戸主で構成された男子グループ。重次郎や市之助が含まれていた):1870年1月5日(明治2年12月4日)長崎の大波止を出航→大阪→伏見→大津→海津→木の芽峠越え→大聖寺通過→金沢の織屋へ。
ルート2(戸主の家族たち):大波止→玄界灘および日本海→隠岐の島→七尾→金沢の湯坐屋へ。
ルート3(上記の船に乗れなかった家族たち):大波止→玄界灘→大阪→伏見→大津→大聖寺の庄兵衛谷の射的場に収容。

ルート3の大聖寺藩にいた33名が到着の一か月後、富山に送られることとなり、これと並行してルート1、2で金沢に来ていた9名が富山に行くよう命じられ、積雪に埋もれた倶利伽羅峠を越えて来た訳です。だから富山に来たのは42名。この人たちが長崎に帰ることを許されたのは3年4ヵ月後のことで、それまでに6名が死亡しました。



常楽寺墓所


蓮華寺は今もあるのですが、常楽寺の方は移転して、墓地だけが残されています。明徳院というお寺やこぎれいなアパート、駐車場になっている辺りが元常楽寺です。

藩内に浄土真宗の寺院は230余りもあったため、合寺令のせいで常楽寺通院(持専寺)には1200人以上もの人が集まることになり大混雑。

そのため浦上キリシタンは全員、境内にあった鐘楼(広さは4畳半ほど)にとりあえず入れられたのだとか。鐘楼は敷地の西端にあったというんですけど、どこかよく分かりませんでした。歴史の痕跡、こんなに消しちゃってていいものですかね?



常楽寺墓地

常楽寺跡

アパート

常福寺


土地勘がないので、浦上キリシタンが収容された寺(29か所)や場所を地図に落としていったのですが、富山市全体に東西にも南北にも広がっていて、まるで信徒たちで結界を張ったみたい。

ほんとに結界が張られていたなら、悪いものは入って来られなかったはずですけど。42名を29カ寺に分けて収容したりしたら、実際はそれぞれが孤立無援の単騎状態。複数でいた所も、母親と幼児とかでしたから。

守られるどころか、その真逆の状態でした。後で触れる重次郎の改心(棄教)からは、雪崩のように改心者が相次ぎ、一貫して不改心のまま長崎に戻ったのは、最終的に5名でした。

こちらの常福寺は、山田平十という人が一人で囚われていた所。この寺の過去帳に経力の温泉場に収容されている間に疱瘡で死亡した勝蔵の娘タイの名が記されているので、この寺に埋葬されたのではないかと。この後経力に行きますけど、近いんですよね。



解説板

常福寺

経力公民館


来ました、経力。昔は温泉が湧いていて、湯治場だったそうです。湯治用の建物を3畳~6畳に仕切って信徒を収容していました。

この時までは家族ごとに収容していたのですが、この後は家族を引き裂いての分囚です。

経力の温泉は大正7年に閉湯し、今は跡形もないです。なので信徒がどこにいたかも全く分からず・・・「経力」という名が付いているものを写真に収めて来ました。後で研究する人によって明らかにされるといいなーと思いながら。


富山での浦上キリシタン


それでは富山に来てからの浦上キリシタンの動きも確認しておきましょう(何だか勉強みたいだな☆)。
明治3年2月19日、重次郎一家5名と、市之助一家4名、計9名が金沢を出立して、途中大聖寺にいた33名と合流して、2月21日に富山に到着。

その日のうちに経力と合流の二つの温泉場に移動して収容。

明治3年4月10日(西暦5月10日)、一同は御用に呼び出され、9歳以上の子供も含め全員が一人ずつ東西浄土真宗寺院に預けられる旨が申し渡される。

3回に分けて29カ寺に送られ、そこで棄教を勧める説諭を受けることに。

明治3年10月27日(1870年12月19日)合寺令で常楽寺、次いで蓮華寺へ。

在新潟イギリス領事ジェームズ・トゥループの蓮華寺視察。未改心者は別牢に入れられていたが、トゥループはそのことを聞いて牢を訪問し、信徒に減食や拷問の有無を質問。明治4年5月8日、富山藩は太政官から信徒の取り扱いが不当であるとけん責を受ける。

明治4年8月以降、未改心者も他の信徒たちと一緒に鈴木家老屋敷(ここが現在のカトリック富山教会)へ。30日余りも神道の講義を聞かされる。

明治5年の末か6年の初め頃、富山藩邸内の射的場の長屋に移される。不改心者たちは、その頃魚津にあった新川県庁に呼び出され説得され、改宗を拒むと牢屋に入れられ、そこで3か月暮らしたが、その後富山へ。

明治6年2月24日、キリシタン禁制の高札撤去。長崎県に対して、流配信徒帰籍の命令が出される。新川県(旧富山藩)では、4月2日付けで「異宗徒人員御届」を提出して信徒を解放。

4月3日、信徒たちは富山を出発し、5月28日、無事長崎の浦上に到着。



経力

経力

経力

経力

合田


で、こちらがもう一つの温泉場である合田。合田もどこに温泉場があったのか分からなかったので、地名だけ撮って来ました。

信徒たちは、長崎を出る際に既に殉教を覚悟していて、どこかに連れて行かれて殺されるものだと思っていました。

だから温泉場に家族と収容されていても、生きた心地がしないというか、祈るしかない状態だったかと思います。

私などからすると、よくパニックにならなかったなと思うのですが、信仰の力ですよね。不改心帰国者は5人と書きましたが、ここに流配されて来ただけでも、死を覚悟するほどの信仰があった証なのだから天晴れと言うべきです。ただ子供がいて、家族がいて、信仰を貫きたくてもできない事情があったというだけで。そういったことを忘れないで、足跡を追おうと思います☆彡



合田

合田

光慶寺


次は光慶寺へ。富山藩預けの浦上キリシタンの中では、深堀キクという女性が一種のアイコンになっているのですが、そのお兄さん善次郎がいた寺です。

立派な寺院ですね。境内の樹木の手入れも行き届いていて。こうやって寺々を回ってみると、鐘が失われて、鐘楼の土台だけが残っているということも多々あるのですが、こちらは健在。

善次郎はどこに入れられていたんだろう。妊婦の身で流配されてきた妹のことを心配していたでしょうね。



光慶寺

光慶寺

新婦スーパー農道!


暗い話ばかり続きましたが、すこーし明るい話題も。

次の目的地へ向かって走っていたら、その道が「新婦スーパー農道」でした。

新婦って♪
午前中は女子ばかりなので盛り上がりました。コンビニに寄って気分転換。歌いながら行きましょうか。この2車線もある道路が農道だなんて信じられないけど。それだけ農業が盛んだということですね。この堂々たる道が農耕機が優先になってる状態を想像しにくいけれど ( ̄▽ ̄)




 さあ、もう少し回りましょ!


浄立寺


一瞬和んで浄立寺へ。一人で預けられた9歳のキン(キヌ)がいた寺院です。もう和んでられませんわ;;

9歳の女児を家族と引き離して、囚人にするって。母親が面会に来たことを改宗の印みたいに言い立てて、母子共に改心者名簿に載せちゃってますけど、やり方も汚くて、もう。

私にもそのくらいの年頃の甥っ子や姪っ子がいるんですが、9歳って言ったら、家の押し入れでかくれんぼしてキャーキャー言ってて、夜は一緒に寝ようと布団に潜り込んで来るような年ですよ。宿題やらないし(それ問題な)。「明日帰る」と言うと、前夜から泣いて拗ねるし。そんな幼気な女児を一人でだなんて・・・

希ーーーっ(≧◇≦)!!!(実名)

ここの寺では殴ったり蹴ったりはなかったようですが、それでも教えを捨てるよう言われて抵抗してますから、それなりに辛くはあったでしょう。こんなことを考えた役人にも執行した大人たち対しても、腹が立つという言葉では足りない思いがします。

唐辛子ミサイル家に打ち込んでやりたい。耳の穴から指突っ込んで奥歯ガタガタ言わせてやりたい。。どんどん過激になる妄想を断ち切るために、寺を後にしました。落ち着け、私。まだこの先もあるんだぞ。



浄立寺

浄立寺

西光寺


では富山藩の浦上信徒のアイコン、深堀キクが預けられていた西光寺へ。

キクがなぜアイコンになっているかというと、悲しい死に方をして、近くに供養されているからです。

明治3年5月1日、キクと4歳の次女トメがこの寺に預けられました。これより前の4月10日に、15歳だった長女のサキは一人で他の寺に送られて、5月28日には夫の重次郎が楽入寺へ、兄の善次郎が光慶寺に移送されました。家族バラバラですね。次女は幼いから母親と一緒でしたが。


キクの死


キクは富山に送られて来た時、既に身重で、出産予定は5月でしたが、それを過ぎても出産しませんでした。そのことを聞き及んだのか、重次郎はキクを見舞い介抱したいと願いました。しかし改心(棄教)しないではそれが許可されるはずがなかったので、恐らくキクに会うために改宗を申し出ました。

6月12日、重次郎は西光寺に赴き、焼香し、数珠を渡され、住職が経を唱えるのを聞きました。それで改宗の儀式は終わり、ようやくキクと会うことができました。だけれどそれから間もなく産気づいたキクは、6月20日赤ちゃんを死産して死亡。

キクと赤ちゃんの遺体は村の焼き場の片隅に葬られ、やがて母子を哀れに思った村人たちによって地蔵尊が祀られました。つまりここも殉教地だということです。信仰を守るために流配されて来て、命を落としたのですから。


キクの遺品?


西光寺には、キクの遺品とされるものが3点伝えられていますが、いずれも極めて信ぴょう性が低いもので、偽物と言っても過言ではないようです。実物を目にしたことがないのにそのように思うのは、本などに載っている形状があまりに「合わない」からです。「合わない」とは、理屈にも状況にもです。

一番の目玉となっているのは仏像が付いた金属製の十字架ですが、縦の長さが30センチ近くもある大きな物です。長崎を出立する際に、信徒たちは信心道具を全部取り上げられて、どこかに隠し持っていないか、服を脱がされ隅々まで調べられました。わずかに女性が髷の中に隠した物を役人が見逃したという記録はありますが、30センチもの物を隠し持って来ることができたはずがありません。これが理屈に合わない点。

当地である程度の自由が与えられてから作られた物だとすればキクの遺品ではなくなりますし、わざわざ仏像付きの十字架にする理由が?です。そもそも、でかでかとしたゴシック風十字架の真ん中に仏像を取り付けるという理由が理解できません。仏教徒を装うために仏像を付けたなら、どうして仏像より大きな十字架に取り付けたんでしょう。

隠れキリシタンの遺物と言いたいのでしょうか? 全然キリスト教を隠してないし、不自然です。つまり形状としてもアウト。説明がつかないのです。たぶん生半可な知識しかなく、それでいて人の宗教心にかこつけて儲けることを考えることはできた人による贋作でしょう。出来も良くないと聞きます。


土産物として作られた物がキリシタン遺物に


「隠れキリシタンの遺物」は各地で「発見」されています。仏教とキリスト教モチーフの融合、そして隠れて信仰を持っていたという悲哀が人々を惹きつけるのでしょう。それは戦後進駐してきた外国人も同じで、土産物としてよく売れたそうです。そのため食べるにも事欠いていた日本では、鋳物業者が隠れキリシタン遺物を作り、売っていたことが分かっています。

その時には「模造品」だと伝えたかもしれませんが、時が経ち、複数の人の手を経てからは本物として、例えば西光寺ではキクの遺品だとか尾ヒレまでついて、扱われるようになったのだと考えられます。善意悪意は別にしても、偽物と言わざるを得ないので、その点を関係者たちに分かっていってほしいなと願うばかりです。



西光寺

西光寺

アジサイ

きくの塚


では「きくの塚」へ。深堀キクと死産された子供は長沢村の火葬場で焼かれて、その一隅に埋められたとのこと。

だから「墓」ではなく「塚」としているんですね。西光寺から少し行くと、「きくの塚」の案内板があり、山中に100メートルほど入って行くと、祠があるそうです。

蚊の猛攻に遭いそうなので、お互いに虫刺されスプレーを掛け合いまくって、いざ山へ!



重坂


カトリック情報ハンドブックの特集記事でここを訪れた記者が、「背丈ほどもある雑草が、おそらく道だと思われるところを覆いつくしている」とか「目の前に巨大な女郎蜘蛛がそのグロテスクな腹を誇示してぶら下がっていたときにはさすがにひるみ、引き返そうかとも思った」と書いていたので、えらく恐ろしい様子を想像していたのですが、そこまでではありませんでした (^-^;

どなたか定期的に清掃して、道が無くならないようにしてくれているんですかね。有り難いこってす。それでも蜘蛛の巣とかはすごいので、杖のようなものがあると良さそう。前の人が除けた枝が、バンと跳ね返って後ろの人を直撃したりするのも注意。

祠に至るこの道は、確か「重次郎坂(重坂)」と呼ばれていたかと。妻子を亡くした重次郎が通っていた道なんですね。



きくの塚


こちらが「きくの塚」。解説板が建てられています。

「墓」ではないけれど、遺灰か何か埋めたんですかね。ちょっと小高くなっています。

そうでなければ重次郎が通った意味がないだろうし。埋葬地である火葬場に通うよりも、妻と、あるいは神さまと静かに対話できるような気がして来ていたのかもしれないけど。。



マリア像と仏像が


祠の中には2体の像。地元の人が建てたという地蔵尊と、カトリック教会によるものだろうなと思うマリア像と。

私にはちぐはぐに見えて、どうなんだろう?と思ってしまう2体の像ですが、前出の記者は「そっと寄り添っている、常ならば対になるはずはない2体の像は、なぜか、柔らかく優しい雰囲気を醸し出している。無理をした甲斐があった」と言っています。

感受性の違いなんですかね。新潟の寺で新造された「聖母観音マリア像」なる物を見てきたからか、「勝手に混ぜんなよ」という思いがふつふつと。それでももちろん「無理をした甲斐があった」というのは同感ですけどね。この侘しさの極みというか、捨て去られた感の強さは、感じるべきものだったと思います。信徒たちはこのような状況に置かれていたんだと。



解説板

2体の像

祠の上の十字架

楽入寺


浦上キリシタン流配地のラストは楽入寺へ。キクの夫、重次郎が預けられた寺です。

重次郎は長崎にいる時、伝道士として信仰的に皆を引っ張っていくような人だったのですが、上述のように妻の容態を案じて改心(棄教)しました。

重次郎の改宗を聞いて、改心者が雪崩を打ったかのように相次いだので、「旅の話」で浦川和三郎師は「深堀重三郎(=重次郎のこと)は信徒の杖とも柱とも仰いでいた伝道師であったにもかかわらず、真先に棄教した。仏僧と声を合わせ経文までも読んだものである。それが悪例となった上に、孤独の寂しさ、減食の辛さ、説得の煩わしさ等に根気負けがして、四十二名が三十七名までは改心してしまった」と手厳しいことを書いています。

信徒から直接話を聞き「旅の話」を著した浦川司教には頭が下がりますが、明治時代の司教様はやっぱりこういう考え方をしていたんだなと、残念な気持ちが少し。この不寛容さと杓子定規な考え方が、浦上四番崩れから最後の殉教への道を、信徒に歩ませてしまったことを、微塵も気付いていないんでしょうか。

いや、それを越えねばならぬ神からの試練だとでも考えたのか。この問題はキリシタンの殉教とも深く関わっています。私には「取り扱い注意」の問題のように感じられますね。「なぜ殉教しなければならなかったのか?」という問いは。


その後の重次郎


さて改心者となって、晴れてキクに会えたものの、一週間ほどで妻子共に亡くすこととなった重次郎ですが、その後どうしたかというと、合寺令で常楽寺に集められ、蓮華寺に押し込められているうちに、仏道に対する疑惑が高くなったと言って、改心戻しをしたいとの願書を出しました。

その後トゥループ一行の視察があり、政府もキリスト教黙許の方向に舵を切ったので、重次郎はキリスト教徒として長崎に戻って行ったのですが・・・、新しい奥さんとその間に生まれた子供と一緒に帰郷して行きました。。楽入寺では一人だったけど、その後は皆と一緒だったので、ヌイという女性と恋に落ちたようですね。再婚して、あっという間にツネという娘が生まれて、家族で帰って行きました。

これを「なんだかなぁ」と、やるせなく思ってしまうのは、私の心が狭いからでしょうか。まあね、確かに狭いですけど。キクとの間にできた2人の娘のためにも母親が必要だったのかもしれないし。大体人に清さやきれいさを求める前に、自分に言えよ、ですよね (=_=)タメイキ...


ただ一点!この寺には非常に高く評価できる点が!! 浦上キリシタンに関する解説板が建てられているのです!経年劣化でほとんど文字読めませんけど、実際にあったことを書いて残してくれているだけでも素晴らしいことだと思います。富山市教育委員会、頑張ってるー☆彡



楽入寺

楽入寺

解説板

解説板

そば屋でランチ


ランチは富山市の中心部に戻って老舗そば屋で。つるつるにもほどがありますぞ!笑という感じ。

ここで午前チームから午後チームへと(私たちが)引き継がれ、この後は男子グループと回ります。少し時間はかかるけれど、高岡へ向かおうということで、出発♪



 午後は高岡へ☆彡


大伴家持像


高岡城は以前行ったことがあるけれど、山の方にある守山城には行ったことがなかったので、まずはそちらへ。

城跡を見つけられずに山頂を登り切り、下りる所まで行ってしまいました。そこにあったのは大伴家持像。

富山大生から、家持が富山にいたことなどをとってもアバウトに教えてもらいました。家持と言えば万葉集で、「海行かば」が連想されるのは私だけ?

戦争とか天皇崇拝とか、ちょっと考えさせられますね。大伴家持が越中国の国守に赴任していた時に詠んだ歌が、時代を経て戦時中に復活してメロディーが付けられて歌われるようになりました。それが万葉集にある「海行かば」。

海行かば 水漬(みず)く屍(かばね) 山行かば 草生(くさむ)す屍 大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ 顧(かえり)みはせじ――。(現代語訳⇒海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない)

これが国威発揚のために歌われるようになり、大戦末期に玉砕が伝えられる度にラジオで流れただなんて・・・。家持びっくりだったでしょうね。芸術の換骨奪胎とその転用に気を付けるべしという教訓でしょうか。



大伴家持像

大伴家持像

守山城跡


さて守山城跡に到着。今は遺構も残っていないようで、解説板が一枚あるだけです。

だけれど市内を一望できる立地はなかなかのもの。

では歌いましょうか♪ 高くて眺めの良い所に来ると、思わず歌ってしまうのがクリスチャンの習性(たぶん)ですので、ここは抑えずに思いっきり賛美を。幸い周りに私たち以外いませんし (#^^#)スイテル

キリシタンとの絡みでいうと、ここには高山右近の父、ダリオ高山図書がいました。ダリオは息子に洗礼を受けさせたくらい熱いキリシタンで、信長に逆らって福井に送られたんですけど、後では許されて金沢藩内や京都に居住することができました。

だから右近も当然ここに来たはずです。右近がいるからダリオは金沢藩に来たんですから。また右近は高岡城の縄張りのために、ここに何度も登ったのではないかと推測されています(「祝 列福高山右近」p98)。登ってみて納得ですね。ここほど地形や城下の様子を詳らかに見ることができる地点はないでしょう。航空写真とかドローンとかが無い時代、山って自然の展望台だったんですね。



守山城跡

守山城跡

眺望

高岡高校


山を下りて城下へ。お祈りできるかもしれないと、教会に向かっていたら、途中に高岡高校の前を通過。同行者の中に2人も卒業生がいて盛り上がりました。

普段付き合っている人たちと、故郷にある自分の母校を見るって、何か不思議な感じがするんでしょうね。

カトリックのクリスチャンで芥川賞作家の木崎さと子がこの高校の出身です。キリスト教関係の著作も多数。短いものしか読んだことないけど (;^_^



カトリック高岡教会


カトリック高岡教会に到着。思っていたのとは違い、幼稚園みたいな外観・・・?

「あら!教会にいらしたんですか~?」
建物の中から出てきた女性に声をかけられました。

「そうです」などと言っていると、「どうぞどうぞ」と中に招き入れてくれました。カギを閉めて帰ろうとしていたところだったけれど、ウェルカムだとおっしゃって。



聖堂内


建物は幼稚園とその奥に聖堂という平屋建の構造。耐震や老朽化の問題で、建て直したとのことです。

隣には和室もあって、足を伸ばして寛ぎたい向きに好評だそう。

「皆さん、日本人ですか? こんなに若いのにクリスチャンなんですか~?」と喜んでらっしゃいました。年々教会で日本人が占める割合が少なくなり、年齢層も上がっているということを言っているのかと。

国際化の波が理由の一つでしょうけれど、日本人も増えて、若い人も来て、外国人とも一緒に礼拝守って、が理想ですよね。お邪魔しました☆



カトリック高岡教会

聖堂

聖堂

幼稚園

十段ソフト


「高岡に来たら十段ソフトですよ! 食べないで帰るなんてあり得ない!!」と言われて、「ショップまじま」へ。高岡高生と地元民御用達、良心的価格設定のお店です。

私は胃が弱ってて食べられませんでしたが、名物まで案内してもらって、こういう雰囲気の町なんだなと実感できました♪


カトリック小矢部教会


少し時間があったので、小矢部にも。カトリック小矢部教会に来てみました。

こちらは人がいる気配がなくて、中には入れませんでした。

これでチーム富山(富山県にある4つのカトリック教会で構成されたグループ)、制覇です。企図した訳ではなかったのですが、殉教地に行き、キリシタンゆかりの地をめぐっているうちにコンプできました。それだけ足跡が似ていたということですね。昔のキリシタンと教会、そして私たちが。

聖堂ファサードのマリア様、とっても良いです。青い空に浮かんでいるみたいで (^▽^)



小矢部教会

聖堂

司祭館

小矢部タワー


小矢部市内を走っていると、否が応にも目に入ってくるのが小矢部タワー。田んぼと低層住宅が広がる中に、急にそびえ立っているので、田園地帯にも蜃気楼が現れることがあるのかと思うくらい。

何と言いますか・・・遠目に見ても浮かれっぷりが辛いです。朝晩この塔を見上げながら、住民はどんなテンションで暮らせばいいのか。地域の活性化をタワーで図ろうとするのは、経済を回すという意味ではブレてなくても、なんかズレてないですかね。大きなお世話でしょうけども。

もしも私が小矢部市民だったらば、この塔をキリストとでも思って暮らすでしょうか。神さまが見守ってくれているというイメージで。それならタワーで祈ってくるか、誰かに来てもらうかしようとするかな。小矢部にクリスチャンが増えたら、そんなことを考える人も多くなって、認識が変わるかもしれませんね☆彡





         キリシタン史と私の課題


本におけるキリシタン殉教者の数は研究者によって諸説あるけれど、日本のキリシタン史研究の草分け、姉崎正治氏は3792名とし、イエズス会のヨハネス・ラウレス師は4045名とし、十分な記録が残されていない殉教者は4万近いとしています。

そのうち教皇から公式に認められた福者・聖人は、今のところ436人(今年列福された高山右近を含む)で、この数は今後増える可能性があります。これが、ローマ帝国による原始教会の迫害以来、特に近世に至って、日本ほど多くの殉教者を出した国は他に例を見ないといわれる所以です。

しかしその一方、最盛期には30万とも40万ともいわれたキリシタン人口に目を向ければ、大多数が棄教したことも事実。殉教者と棄教者、どちらにもバランスよく関心を払わなければ、本当のキリシタン史は見えてきません。

ところが資料を読んでいると、天晴れな死を遂げた殉教者ばかりが頭に入ってきて、自分の信仰とも相まって、感情移入してしまうことが多くあります。九州では強制的な改宗も一部にはあった訳だし、だから人によって信仰に濃淡や差異があったことは自明の理なのに、キリシタンは皆悪気なく、良いものだったと思いたい心理が働くのです。

これを超えないと、正しくキリシタン史を見ることができないんだと最近気付きました。私の課題です。どこかに行くのもいいけど、見る目を整えて、感情に振り回されぬよう精神もしっかりさせなきゃなと思う今日この頃です (@_@。。






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