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キリシタンのあしあとを求めて各地を旅してめぐります♪

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 watashiを見つけてくれて Ⅳ


今日は一人じゃありません☆ 大阪のGさんが紹介してくれたKちゃんと広島を回ります。一人でないのはうれしいけれど、肌が荒れに荒れててクレーターみたいになっているのが困りもの。日焼け止めが合わなかったのかな。顔かゆいけど取り敢えず行ってきます(^^)/



八丁堀外濠跡


路面電車に乗ろうとしていたら小さな碑が。たぶんこの道が外濠の跡なんですね。広島城の総構えはかなり広かったようです。お城というと天守しか思い浮かびませんが、ほんとは濠や二の丸等全体が城だったわけですから。

うーん、ちょっと雨がぽつぽつ。一日ぽつぽつくらいで持ってほしいなぁ。


ノートルダム清心学園


西広島駅で待ち合わせたKちゃんは、食べかけのドーナッツ片手に現れるような飾らない性格(?)。楽しくなりそうです(^^♪

ノートルダム清心の入口辺りにお目当てのキリシタン殉教碑があるということで、女子学生たちについて行ってみましたが・・・ない?

道路工事の人に訊いてみると、少し戻った所にあるということで引き返すことに。


キリシタン殉教碑


するとちゃんとありました!広島のキリシタン殉教碑

1616年に処刑されたドミンゴ星野から1654年まで名前が記されていますね。

1624年のところに書かれているフランシスコ遠山ら3人が2008年に列福された人たちです。広島から江戸送りになった信徒たちの名前はないようです。江戸で死ぬまで数十年間牢屋にいて、死んでからしか広島に戻れなかったのですが。

フランシスコ遠山甚太郎


フランシスコ遠山甚太郎は、1600年に甲斐国の浅野幸長(あさの・よしなが)の家臣の家に生まれた武士で、1619年浅野家の移封に従って安芸国広島に来ました。甚太郎は、全国的に禁教令が出ていた1616年、16歳の時にフランシスコ会のアポリナル・フランコ神父から受洗。キリシタンとなっていました。

1623年二代将軍徳川秀忠は隠居して家光が将軍となると、キリシタン弾圧はより一層強められました。広島でもキリシタン改めの命令が発せられ、浅野家の家臣団に対しても調査が行われましたが、形式的に「改宗した」と言えば当面の無事は確保される状況でした。

フランシスコ遠山もこの調査のあったときに留守にしていたので、家令が勝手にキリシタンをやめたと虚偽の署名を出しました。後でそれを知ったフランシスコ遠山は怒り、奉行所に出かけていってそれを取り消すように訴えました。

1624年2月、主君の浅野長晟(あさの・ながあきら)から4人の使者が遣わされ、信仰を棄てるように最後の勧告が言い渡されましたが、フランシスコ遠山は「魂の救いに反しない限り、主君である殿に、万事心から服従するつもりである。しかし、主なるキリストの法に背くことは救いに反することであるから、その点においては、殿に従うわけにはいかない」と答えて首を斬られました。24歳でした。


キリシタン殉教碑

キリシタン殉教碑

殉教者名

太田川


実際にキリシタンが処刑されたのは、碑のある所ではなく太田川の川原。昔の己斐川はちょうどこの辺りに流れていました。この辺りに処刑場があったはずです。

キリシタンの処刑は見せしめのために行ったものなので、人通りの多い街道筋が川にぶつかった辺りではなかったでしょうか。川原を刑場にしたのは、火刑にしても磔刑にしても後始末が楽だったからです。


西広島駅


西広島駅に戻るとズッコケ三人組の石像が。カッパ着せてもらってますけどずぶ濡れです。三人組は気にしてないでしょうけど (;^_^

こんな天気の日に殉教地を回ると、多少陰鬱になるのは仕方ないですね。それでも永遠の国を得るために勝利した人たちなのだから、「可哀想」とか「悲惨」だと捉えるのは何か違っていると思います。


己斐川の周辺

史跡地図

キリシタン殉教碑も


 五日市へ行ってみよう★


五日市の町並み


では山陽線に乗って、もう少しだけ西へと参りましょう。下り立ったのは五日市。古い町並みが西国街道の宿場として栄えたことを物語っています。

五日市は広島市内ですが郊外の住宅地で、ここまでは観光客はめったに来なさそう。高札型の案内板には、町の歴史や史跡が詳しく書かれていて面白いです☆


瀬戸の川解説坂

五日市

塩浜跡

塩浜跡解説板

五日市城跡


五日市に来たのはキリシタンがらみで、今度は明治時代に広島へと流配されてきた浦上(うらかみ)キリシタンという人たちがいたんですけど、その人たちが暮らした町の一つが五日市だったのです。

その人たちのことを記念する碑が建てられていると聞いたのでちょっと来てみたのですが、それよりも前に、こちらのアライアンス教会がある所が、昔五日市の城があった所だったと知ってびっくり。

この教会、五日市城跡に建っているんですね。こんな狭い路地に囲まれた住宅地の一角が城跡だったなんて、昔とは地形も町割りも随分と変わってしまったんでしょう。それはさておき立派な教会堂だったので、Kちゃんと一緒に覗いてみました(Kちゃんもクリスチャン)。別に羨ましがってる訳ではないですけど (^^ゞ


五日市城跡

五日市城跡

五日市キリシタン殉教碑


教会の向かい側、道を挟んだ私有地にあるのが五日市キリシタン殉教碑

広島には179人の浦上キリシタンが流配されてきて、約3年半の牢屋生活で40人が亡くなりました。

そのうちの3人が殉教したのが五日市だったので碑が建てられているのです。だけれど広島の他の場所で殉教した人たちのことは、碑はおろか、地域の人にも全然知られていないので、こうやって知らせてくれて感謝です。歴史を忘れることが、次なる悲劇を招くのでしょうから。


五日市キリシタン殉教碑

殉教者名


 市内中心部へ戻りましょうヾ(´▽`*)


カトリック観音町教会


JRと路面電車を乗り継いで、カトリック観音町教会へ。こじんまりとして可愛らしい教会です。

この教会が己斐川の殉教碑への巡礼などを通して、キリシタンの顕彰活動をしているので、ちょっと寄ってみたいなと思って♪

聖堂内


聖堂内も思った通りの素朴で落ち着いた印象。生活と信仰の近さが感じられます。

誰もいなかったのでKちゃんと一緒に賛美歌を何曲か歌ってきました。

人生とは不思議なものですね。今日初めて会った人と一緒に回り、歌っているなんて。信仰のなせる業(わざ)とも言えそうですけど (#^^#)


聖堂内

広島の列福者

列福式で鳴らされた鐘

鐘の解説

聖母幼稚園


では電停「銀山町」で降りてカトリック幟町(のぼりちょう)教会へ。近づいていくと聖母幼稚園やエリザベート音楽大学などが周辺にあって、教会の城下町のようになっています。

立地がとてもいいですね♪


世界平和記念聖堂を横から


カトリック幟町教会へ到着。正門でない所から入ったので、世界平和記念聖堂の横手に出ました。

世界平和記念聖堂は、建築家でありカトリック教徒の村野藤吾が手掛けました。横からの表情もいいですね。

鉄筋コンクリート造なのに、ゴシックよりも前のロマネスク様式を思わせる古典的な外観で、それでいてちょっと可愛らしいデザインを加味する余裕があります。60歳代の円熟味を感じさせます。


世界平和記念聖

教会内案内図

小聖堂

小聖堂

世界平和記念聖堂


小聖堂でお祈りして、聖堂の正面へ。重厚さと端正さを兼ね揃えた建築で、周囲に落ち着きを与えてくれます。

この聖堂は、1945年8月6日の原子爆弾の惨禍を体験した、当時の広島カトリック幟町教会主任司祭フーゴー・ラッサール神父が、原爆の犠牲となった人々を追憶し、全世界の平和のシンボルとしようと発案したもので、世界各地からの多大な寄付により建てられました。

聖堂前の庭には広島平和記念公園で平和アピールのメッセージを発した教皇ヨハネ・パウロ2世の像や無名戦死者の追悼碑等があります。

建築コンペの汚点


間違いなく素晴らしい建築なのですが、この聖堂の成立には建築コンペ史上最悪と言っていいほどの不透明な経緯が絡んでいます。まず広島では戦後の復興を象徴するものとして、ほぼ同時期に2つの大型プロジェクトが進められました。世界平和記念聖堂と平和公園です。

建築案はコンペで審査されることとなり、記念聖堂は一等なしの二等に井上一典と丹下健三。平和公園は丹下健三と決まりました。丹下健三の実質的なデビュー作となった平和公園は世界から注目され、これを機に「世界のタンゲ」の道を歩んでいくようになります。

ところが、記念聖堂は一等なしのため、コンペ案は採用されず、いつのまにか、審査員の一人であった村野藤吾の手によって設計が進められていったのです。そうして出来上がったのがこちらの聖堂。コンペをしておきながら、審査員が一等を出さずに、自分が設計してしまうなんてこと許されるはずありません。

あり得ない経緯で誕生した聖堂ですが、やはり良いものではあり、特に入口上部の欄間にはめ込まれた今井兼次の彫刻が秀逸ですね。今井兼次はカトリックのクリスチャンで、村野藤吾の盟友なんですけど。だけれどどうでしょう、やっぱり経緯も美しくあってこそ、出来上がった作品も美しいと思います。信徒がすっきりした気持ちで眺められることまでは、村野藤吾は構造計算しなかったのかな?


世界平和記念聖堂

今井兼次の彫刻

ヨハネ・パウロ2世

無名戦死者の追悼碑

聖堂内


中に入ると非常に斬新なキリスト像が。

切り裂くような黄金の光がキリストを貫いています。

「平和は犠牲の代償なり」という意味を込めてベルギーから贈られたものだということですが、デザインとして少し大胆過ぎるように感じます。

大きく見開かれたキリストの目は慈愛に満ちているというよりは、畏怖に打たれたかのよう。息を飲んで凍り付いてしまったみたいに見えます。これが原爆の惨禍を目の当たりにした姿というなら納得しますが、キリストですから、ちょっと違いますよね。黄金の光は栄光を表すものだと思うんですが、私にはキリストの心を引き裂いているように思えます。

私なら「引き裂かれた主の心」と命名するけどな。そう思ったら泣けてきました。主が十字架に引き裂かれたまま、そこにおられる気がして。そこから下して差し上げるにも、人類の罪が大き過ぎて、その代価を誰も払い得ないことを感じて・・・。


聖堂内

聖堂内

信・希・愛

聖堂の扉

広島女学院へ


次は広島城へと向かおうと、西へてくてく。途中、広島女学院も見学。キリスト教系の学校なので。

今年オバマ大統領が広島に来たとき、歓迎の花束を渡した女子学生がここの生徒だったとKちゃんが教えてくれました。平和教育に力を入れている学校なんですね☆


広島女学院

広島女学院

ゲーンス記念ホール

原爆関連の掲示

ここでブレイク♪


急に雨足が強くなり、お腹も空いてきたのでちょうど見つけたお店でランチタイム。外国人向けのおしゃれなレストランですがリーズナブルでうれしいです♪

女子の心鷲掴み的なサラダバーに感激しました。神様が共にして下さっているんだと感謝しつつ(ここで?)。普通の旅行者だったら、こういうグルメとキレイな景色が思い出のメインになるんだろうな。

私たちにとってはそれらは副菜ですけど、それでもやっぱり楽しい味付けにはなります (≧∇≦)



 広島城へ p( ̄ー ̄\)Lets Go!


お濠と櫓


さて再び城を目指します。大きな濠が視界に入ってきましたが、同時に城内のぐちゃぐちゃな水たまりも。靴汚れそう。臭くなりそうだし・・・。

ひるみながら、城内への安全ルートを探していたら、どんどん天守から遠ざかっていくような感じ。どこかで思い切って突っ切って入っていかなきゃいけなさそうです。


拘置所壁画!?


と、案内地図を見てみたら、「拘置所壁画」の文字が。牢の跡が拘置所になっていることもあるので是非見てみたいです。壁画があるんですねぇ?

それにしても案内板のこの文字、幽霊みたいな字体でいただけません。広島市内の案内板は大抵この字体で書かれているようですが、市民は何とも言わないんでしょうか。

これじゃあ平和記念公園やその他の史跡もまるで怖くて魔物でも出そうな感じです。恐ろし気な雰囲気を醸し出す必要一つもないのに、何でこんな字体にしちゃったんでしょうね (-ω-;)マッタクモー


拘置所壁画


気を取り直して拘置所へ。なるほどこれが壁画ですか。塀の上に設置された釘の方が地味にインパクトありますけど。

城からの位置関係と距離からして、ここが昔、牢だった可能性はありますね。古地図とか見てみないと分かりませんが、古地図って1600年代初頭のものも、城内のものもまずないから、うむむ。

だけれどもし牢だったなら、26聖人が宿った可能性大です。26聖人は1597年1月21日に広島城下に泊まったことが分かっていて、恐らく宿泊地は城内の牢だったろうと考えられているので。

またその牢が1620年代にも使われていたとしたら、2008年に列福されたマチアス庄原の改心地の可能性もあります。マチアス庄原は牢の役人だったのですが、牢に入れられていたアントニオ石田神父の話を聞いてキリシタンになり、そして殉教するまでになった人。牢はその劇的な改心がなされた場所だったということができます。

今回広島まで足を伸ばしたのは、ついでというか、大阪に来る機会があったからなので、あらかじめ調べておくことがほとんどできませんでした。五日市の殉教碑だって前日に「そういえば・・・」と思い出して行くようになったのです。甘く考えていたなと反省。しかし後悔先に立たず、です。


拘置所

釘怖い・・・

広島大本営跡


それでは城内へ。足をつく場所を慎重に選びながら。

城内にあったのは、広島大本営跡。横手には明治天皇が滞在した場所の跡があります。

広島城の中には明治の頃から大本営(大日本帝国陸軍および海軍の最高統帥機関)が置かれていたんですね。

はっ、そうか、1894年8月に日清戦争が勃発したので、明治天皇は戦争を指揮するために広島市に移って、大本営も広島城内に移転されたということですね。広島が「軍都」だったことの証拠を突き付けられた感じがします。


広島大本営跡

広島大本営解説

広島城


なるほど、とか言ったら良くないのかもしれないけれど、広島と軍、そして原爆へのつながりが見えてきた気がします。

大本営跡を抜けると右手に広島城天守が。

説明板によると毛利輝元が築城して、福島正則を経て、浅野長晟が入城して明治まで続いたみたいですね。もちろんその時の城は原爆で瓦解して、現在のものは1958年に再建されたそうですけど。でもここにフランシスコ遠山は登城していたはずです。中に入ってみましょうか☆


二の丸図

城内の展示

城内の展示

城内の展示

天守より


城内の展示は、撮影可のところは一部で、内容としてもイマイチ(戦国好きな人なら楽しめるのかもしれないけど)に感じましたが、天守からの眺めは良かったです。

都会のビルよりもずっと低いですが、当時はきっとこれくらいの高さだったと思うので。

昔のお殿様はこうやって街を見下ろしながら何を考えたんだろう。濠の向こうに住む庶民の生活を豊かにしたいとか考えたことあったのかな? 私なら祈るけど。こんな眺めに出会ったら♪


展望階より

展望階より

展望階より

お濠から城を望む


天守から下りて、城内を回りながら外へ。城内には大きな神社もありました。いつの時代からあるのか知らないけど、今でも参拝する人が多そう。

広島城は濠の外にも公園が広がっていて、散歩するだけではもったいなくらいのスペースが。

そこでここでもKちゃんと讃美歌を。昼間っから街中で歌えるっていいなぁ(昼間っから酒飲めるっていいとか言ってるおやじみたいですが)。共に歌えばそこが天国です (*´▽`*)


城内の神社

城内


公園

広高の森?


また歩いていると、公園は公園でも木がたくさん植えられた公園が。「広高の森」と書かれています。

「広高」というのは旧制広島高等学校のことですよね? 現在の広島大学の前身というか。構成母体というか。

碑の裏面の説明によると、広高があったことを記念するものらしいです。スマホを駆使するKちゃんが、この後訪れる平和記念公園を設計した丹下健三は広高出身だと教えてくれました。何か広高、広大に関心を持てとを示唆されているような・・・(*'ω'*)?


広高の森

解説碑

広高跡地


 原爆ドームを見上げながら


路面電車


しゃべったり歌ったりしていたので気づきませんでしたが、すぐそこに原爆ドームが見えてきました。手前には広島名物の路面電車が。

1日乗車券買ったけど、意外と乗りませんね。街を練り歩いてる感じですけど ( ̄∇ ̄;)


原爆ドーム


道を渡ると原爆ドーム。外国人観光客、特に欧米系の人が多いようです。

日本人は修学旅行生が大半。

オバマさんが来てから来訪者が急増していると聞きますが、ブームみたいなので終わらないでほしいです。

日本人に生まれたおかげで原爆の話はそれなりに聞いてきたと思いますが、実感するのはなかなか。自分が感じられるようになるというのは、個人的な経験に属することだから、外からの情報を受けるだけでは実感までは結び付かないのでしょう。それでも感じようと思って来ましたが。

一瞬の閃光と衝撃で、一体何が起こったかも分からないまま死んだ人たち。体も背中もずるりと皮がむけたまま、ただれた皮膚を垂らしながら歩いていた人たち。熱い痛い水が飲みたい。川に入って溺れ死んだ人たちの折り重なった体。赤ちゃんを抱いたまま黒焦げになった死体。垂れた眼球を手で受けながら歩く若い娘。生きたとしても放射能に蝕まれた体で一生苦しんで・・・。


原爆ドーム

川辺の碑

川辺の碑

原爆ドーム

平和記念公園


71年前の夏に何が起こったんでしょうね。原爆が落ちた、それは分かるけれど、それが本当に「一体何だったのか」。

それが分からないからこそ、人々はここへ巡礼者のようにやって来るのではないでしょうか。

学ぶためというより、人類がまだ見いだせていない何かのために、祈りにも似た思いを持って来るのだとしたら、ヒロシマは平和の巡礼地なのかもしれません――。

ドームからここまで


平和記念公園の広島平和記念資料館前に立つと、消えない炎の向こうに原爆ドームが一直線に見えます。

丹下健三は天才ですね。

燃え続ける炎は絶え間ない努力と祈りの必要性を感じさせ、見る者に人類の罪を思い起こさせます。


平和記念公園

広島平和記念資料館

広島平和記念資料館

広島平和記念資料館

嵐の中の母子


2人とも見学したことがあったので、今日は資料館内は見ずに下を通って反対側に出ると、こちらにも公園が。

噴水と「嵐の中の母子」像があります。平和記念公園内にはいろんな碑や像や鐘などが設置されていますが、私はこれがいいですね。

絶えず努力してこそ平和が成されていく、完結も終わりもないのだと教えてくれるから。


噴水

嵐の中の母子

嵐の中の母子

平和大橋


嵐の中の母子像のところでまた一曲賛美してから帰路へ。私が泊まるホテルまで歩きがてら(送ってくれながら)お茶でもしようということで☆

元安川に架かるこの橋は平和大橋というそうで、イサム・ノグチの作品なんだとか。「軍都」から平和を象徴する街へと、広島が変化したことを表すものの一つではないかと。


旧国泰寺 愛宕池


直線コースをしばらく進むと、ANAのホテルの前に緑の庭が。ホテルと道路とに挟まれた場所に、突如小さな森が出現した感じですけど、これは何?

あ、国泰寺!

思わず声を上げてしまいました。ここ、国泰寺の跡みたいです。浅野家の菩提寺の。

私はキリシタンを処刑した責任者たちの墓も見に行っているので、浅野長晟が葬られた国泰寺にも行きたかったのですが、調べてみたら市内の中心部ではなくて山の方にあったので、行けないと思って諦めたのです。が、今目の前にあるではないですかっ!

解説坂を読むと、ここに国泰寺があったけれど移転したんだそうな。つまりここに浅野長晟は葬られたってことですね。その後の藩主たちも近年になるまでは。殿様の墓なので移転するとき墓石と位牌だけ持って行ったってことはないかもしれませんが、下手したらあり得ますね。お経をあげて「魂(こん)だけ抜く」という方法で墓を移転する話を聞きますから。

兎にも角にも浅野長晟の終着地がここだったことは間違いないですね。もしかしたらこの地下に眠っている可能性もありますし。下調べしたのでもないのに、発見させてもらって僥倖ですよ。勉強不足な私を、知ってたら行きたいだろう所にまで導いてくださるって、結構大変でしょうね。ありがとうございます♪(あ、神様に対して言ってます^^)。


国泰寺跡

国泰寺跡解説

ANAホテルの前

国泰寺跡の巨木

パンケーキでお茶して


ラストはパンケーキでお茶して2人の女子会。歴史談義で盛り上がりました。特に熱くなったのは、今とのつながり。過去が過去だけで終わらずに、今にまで続いていることを感じて、それが大きな恵みとなりました♪

1人で回ったらこういう対話もできなかったのだから、明日も誰かに会える機会があるのだったら、会える方を選ぼうと思うようになりました。ぐじゅぐじゅになった靴、明日までに乾きますように!




広島大学(略称:広大)には夫の知人がいて、連絡してみたら案内してくれるとのこと。渡りに船と単純に喜べばいいのですが、妙に「私に何が出来るんだろう。いや、そもそも何しに行くんだ?」みたいな考えが浮かんできて消極的な気分に。人は相手に有益を与えられないと、会うことに積極的になれないものなのかもしれません。

それでも広大に行ってみたい気持ちは強くて、こういう時は祈らなきゃと思い祈ってみると、なぜか「ご飯を作ってあげなさい」と言われているような感覚が。ふむ、ピーマンの肉詰めにしようかな。自分に出来そうな有益が思い浮かんだら、気が楽になり・・・熟睡zzz



西条へ


広島駅から西条駅へは電車で30分ほどですが、道中のローカルさには目を見張るものがあります。山から霧が下りてきている様子などは、すごく遠くに来たんだなと旅愁を感じさせて止まず、土砂崩れ等の災害が心配になる所も。

夫の知人Sさんには昨日のうちに「近所に安いスーパーありますか?」と訊いて確認済み。クリスチャンでスポーツマンなのできっといい人でしょう(話したことないけど)☆


広島大学


広大は駅から5分くらいだとKちゃんから聞いて、私はてっきり徒歩で5分かと思ってましたが、車ででした。自力では来ることできませんでしたね。迎えに来てもらって良かったです。

広い敷地に緑のキャンパスで、筑波大みたい。学生の風習も似ているようです。

番狂わせだったのがご飯を作る計画で、Sさんは広大生と家をシェアしているということで、そこに乗り込んで行って料理をするというのは、どう考えても不自然そう。昨日受けた感動に拘泥して強行するのも変なので、計画変更することに。Sさんの考える流れに乗っていきましょう♪


マーメイド・カフェ


カフェでお茶して話をして、昼休みになったので学食へ。学食なのに、店員さんが席まで注文取りに来てくれるスタイルです。

そこで何人かの広大生に会って短い間でしたが楽しく過ごせました。人と会うというのはいいですね。対話は口でしゃべるけれど、心でするものだなと感じました。

そうか、ご飯作って来なさいというのは、お互いに栄養になる対話もして、後にも恵みになるものを残して来なさいということか。聖書でもイエス様が、神様の仕事をすることが私の食べ物だとおっしゃったもんね。深い深すぎる(神様、これで解釈間違ってませんよね^^?)


東に向かいつつ


「また会いましょう」と言ってもらい、新幹線へ。実は楽しくて時間オーバーしてしまったのですが、新幹線の方が遅れて無事乗ることができました。はれるや。

東へと向かいつつ、改めて広島ってどんな所なんだろうと(今更なんですけど)検索してみると・・・。

えっ、西条って昔の四日市!?

26聖人と浦上キリシタンと


東広島市の西条町。今回広大に来なければ知らなかったこの場所は、私にとっては絶対に来なければならない地でした。一つには26聖人が長崎へと死出の旅に連行されていく時に宿った場所として、もう一つは明治になってから浦上キリシタンが牢屋生活をした場所として。だから最初の殉教者と最後の殉教者がクロスしているのが西条だと言うことができます。

どうしてこれに気付けなかったかというと、ついでに来たから不勉強だったというのもありますが、昔はこの町を四日市と呼んでいたからです。資料を読んでいても、「浦上の信徒は尾道から五日市や四日市に移されて・・・」とあり、今の地名が出てこないのでネットで検索するまで気付かなかったのです。うかつでした。というか、今気付かせてもらっても感謝ですね。先に情が湧いているので、資料がすごく頭に入ってきます☆

40人の不改心者


中でも特筆しなければならないのが、四日市(西条)の信徒たちの信仰です。明治2年12月~明治3年1月にかけて、長崎の浦上村の信徒179名が広島に送られて来ました。最初は尾道の数ヶ寺に収容され、劣悪な環境の中で飢餓に苦しめられ、30余名が死亡。

その後明治3年7月、尾道から四日市、五日市、廿日市、仁保島に分散して送られ、そこで僧侶や神官から説諭(棄教をすすめる説得)を受けました。多くの者が棄教(改心)しましたが、四日市で牢生活をした信徒39人と五日市の1人だけが改心せず、信仰を守りました。

誰も好きで信仰を捨てるはずがないので、自由に信じることのできる時代にいる私たちが改心者を裁くことはできませんが、不改心者の堅固な信仰を、その姿を心に留めずにはいられません。西条でも4人の殉教者が出ています。

生きた碑、生きた証


残念なのは3人が殉教した五日市には、それを偲ぶ記念碑が建てられているのに、1人を除く全員が信仰を守り、尾道以外で最も多い殉教者を出した西条には碑はおろか、覚えている人もいないという現状です。ただこれも、私だって今やっと知ったばかりなので、人のことは言えません。反省するしか;;

でも碑はないけれど、広大はあるぞと思います。Sさんのようなクリスチャンがいて祈っていることも、生きた碑、生きた証だと思います。神様が喜んでくださる記念の塔を建てながら、歴史が進んでいきますように――。





watashiを見つけてくれた神様


人の心は目に見えない。隣にいても、ずっと一緒に暮らしていたとしても、自分にしか分からない部分があり、自分にも見えない部分がある。だから心を分かってくれることほどうれしいことはないのでしょう。

こんな心を持ったこんな私。こんな私がいることを、神様が分かって導いてくださったんだなと思うとき、私は一番感謝します。誰も知らない心を分かって、救いの手を出してくれるのは神様しかいないと思うから。

今回、大阪ではGさん、広島ではKちゃん、西条ではSさんと、出発する時点では想定もしてなかった人たちと共にして、対話を通してそれぞれの人生の経緯や思っていたことなどを聞いて、やはり神様は一人ひとりを見出だしてその場所から導いたんだと感じました。

人の心と同様に、神様も目には見えない。だけれどこの心を通して見れば、はっきりと感じられるから不思議です。watashiを世界の片隅から見つけて生きるようにしてくださった方を、永遠に賛美していきたいです♪






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